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戦中戦後に生きた老獣医師の回顧録
表 信一郎 † (北海道獣医師会会員)![]() 「女の一生」のヒロインのジャンヌは貴族に生まれ育ち数奇な運命を辿り零落して一生を終えるが,「世の中と云うものは,人の思うほどよくも無ければ悪くもないものですね」という言葉でこの小説は終わっている. ジャンヌのような高貴な生まれ育ちから見れば,地位も名誉も金もない私の生涯など塵芥みたいなものであるが,この機会に「女の一生」に対抗して老いぼれなりの「男の一生」を綴ってみたいと思った. 想えば1928年(昭和3年)北海道に弧々の声をあげ,時の流れに身をまかせ忠君愛国の軍国主義教育を小学校から叩きこまれ,童心には意味も理解できないまま校門に設置された現人神である天皇陛下のご真影を安置する厳めしい蔵のような建物に登下校時に最敬礼をし,祝祭日には屋内運動場に直立不動で整列,宮城遥拝し頭を下げながら校長の朗読する教育勅語を拝聴したものであったが,昭和16年太平洋戦争が勃発,鬼畜米英を壊滅させることが祖国のため,そして父母や姉妹達の幸せにする道であると盲信する一端の愛国少年となっていた. 昭和18年「学徒戦時動員体制確立要綱」による学徒勤労動員令により中学大学の学業はすべて中止,農家に寝泊りしながらの援農作業や軍需工場での生産作業,飛行場建設作業等々駆り出され,勤労動員のない時は三八式歩兵銃を担ぎ配属将校の指揮下軍事教練に明け暮れしほとんど教科書を紐解くことは無かった. 級友の多くは学業半ばで少年兵を志願し入隊した.特に海軍飛行予科練習生,通称予科錬の七つボタンの勇姿は憧れの的であったものの私は近眼のため入隊できなかったが,志願採用され勇躍入隊した級友達の多くは一部を除き,すでに戦費底をつき乗るべき飛行機がなく,操縦桿に触れることなく地上訓練のみで復員している. 当時,父は青函連絡船乗組員であったが,敗戦の一カ月前の昭和20年7月米軍機動部隊の空襲を受け青函連絡船は全滅し本州と北海道を結ぶ航路は壊滅的打撃をうけ,その犠牲となり津軽海峡の藻屑と化した.享年52歳であったが,母を残し,また真珠湾攻撃からの生き残りの戦闘機乗りで三四三空に所属中事故に遭遇,脊椎骨折の重傷で大村海軍病院入院中の義兄看病のため九州にあった姉,幼少から病弱で病床にあった妹と,旧制中学在校の私を残し,どんな思いで津軽の海を漂流し黄泉の国へ旅立ったのか,今,人の親となり孫をもつ身となりその心境を察するにあまりあるものがある. 我が家の屋根すれすれにパイロットの顔が見えるまでの低空で機銃掃射するグラマン艦上攻撃機の機影は亡父の面影とともに脳裏に焼き付きいまだに忘れられない. 最近,北朝鮮問題がメディアを賑わしているが,祖国や指導者のためには一命を惜しまずという一糸乱れぬ統制された彼らの盲目的行動を見て,僅か半世紀程前の「忠君愛国」を国是とし厳しい言論統制のなか食糧難に喘ぎながら竹槍を小脇に一億玉砕を叫んだ戦時中のわれわれの過去を彷彿とさせ,半世紀以上遅れている彼の国を嘲笑できるわれわれ年代の日本人は何人いるだろうかと思う今日この頃である. そして1945年(昭和20年)8月15日敗戦,昨日の正義が今日は悪とすべての価値観が180度逆転する時代を迎え,GHQ(連合国総司令部)の命令で教科書の軍国思想的な記述を,生徒自身が墨汁で黒く塗りつぶした教科書を手に久々に教室の机に向かったものであった. 卒業を目前に大黒柱の父を失い就職を模索していたが,その頃,東京在住の従兄が闇商売で大儲けしていたことから,生活費と学費を援助するからと上京を促され,渡りに船と好意に甘え北海道の片田舎から,徒手空拳若さだけを唯一の武器として1946年(昭和21年)春,東京獣医畜産専門学校(現日本大学農獣医学部)へ進学し,戦災を免れた板橋の従兄の自宅へ下宿したが,池袋駅に降り立つと一面焼け野原で建物がほとんど無く立教大学が目前にひときわ大きく見えたものであった. また大きなリュックザックを背に東上線で埼玉方面へ食料買出しに行く乗客が車内に入りきれず機関車の前部や窓にぶら下りの超満員だったことを覚えている. 昭和21年春インフレ防止のため「金融緊急措置令」が公布,預貯金は封鎖され現金の払い戻しは500円に限定された.巷には並木路子の「リンゴの唄」が流れ,花柳街に米兵立入り禁止の「off limits VD」の看板が立ち,銀座四丁目の交差点ではMPが派手なパフォーマンスで交通整理,新宿や新橋等々の盛り場の闇市には人々が溢れ,無警察状態でやくざ全盛の時代であった. しかし,好事魔多しというが,好景気を謳歌した従兄の闇商売も詐欺に遭い敢え無く倒産. 学業放棄退学して故郷へ引き上げるべきか悩んだがバイトしながらでも初志貫徹を決意し,貧しき懐が故に餓えていた時代パンにチーズの昼食支給が魅力で米軍に接収されPXとなっていた銀座松屋にfloor boyの職を得たが,PXの休日は月曜日のため時折休んだり早退遅刻を繰り返しながらの通学であったが学労両立は難しく欠席の方が多かった. 卒業も間近になった頃,すでに実施されていた医師国家試験と同じく国家試験が施行されることになったが,旧学制と新制大学との切替過程措置として,1949年(昭和24年)及び1950年(昭和25年)3月卒業予定の専門学校生には卒業試験または論文に代えて獣医事審議会出題の同一同日の一斉試験を行い合格者に獣医師免許証が与えられることになった.1948年(昭和23年)4月入学者からは修業年限が1年延長され4年制となり,今日の6年制のベースとなった制度改革であったと思う. 考えてみると,今日まで私が受けた教育は小・中,大とすべて旧制度であるので,旧態依然固陋頑迷で頭の切り替えができないのは,その所為かも知れない. しかし,予期せざる全国統一の模擬国家試験に合格しなければ卒業できないと宣言され,バイト専門で3年生の時はほとんど講義に出席していない私は慌てふためいて,必死で級友の力を借り模擬試験問題集を何十日か徹夜して所謂一夜漬けの勉強した記憶が蘇る. 因果応報というがインスタント勉学の結果,獣医師免許証は得たが,元々頭脳不明析のうえ基礎学力の欠如は生涯を通じて私の悩みであった. そして,どうにか卒業し帰郷することができた. 1946年(昭和21年)の入学当時,1カ月500円以内で何とか暮らせたが,3年経った1949年(昭和24年)卒業時5,000円でも足りない超インフレでカネはあってもモノのない時代のため,今なら廃棄処理手数料が掛かるであろうが,当時は物であれば何でも売れた時代,3年間お世話になった机,本棚,衣類や染みの付いた寝具類まで売り払い旅費を調達しての帰郷であった. 北海道に帰り,農業高校の畜産の教師となったが,教育者の器に非ずと3年程で辞職したが,あれから半世紀を経て今では古希を過ぎた昔の教え子達から毎年クラス会にお招きを頂戴し,メダカの学校ではないがだれが生徒か先生かとお互いの頭や皺を眺めながら杯を酌み交わし教師冥利の幸せを感じている. その後,縁あって保健所へ勤務し狂犬病,と畜検査,食品衛生,環境衛生,公害等々の公衆衛生行政を担当しながら,北海道の北の果稚内から南の函館まで東奔西走北上南下と転勤を重ねたが,獣医師としての最大の想い出はエキノコックス症対策事業であった. 人のエキノコックス症患者は1937年(昭和12年)に北海道礼文島出身者に発生して以来1948年(昭和23年)までに住民検診が行われ多数の患者を発見,感染動物調査も実施され犬2頭猫1頭が発見され徹底した野犬対策と住民教育の結果,昭和30年後半には礼文島に極限され終息したものと思われ人々の記憶から消えつつあった. ちょうどその頃,私は日本最東端国境の街根室保健所の食品乳肉係長として勤務し,味覚の王者といわれる真紅の花咲蟹を肴に冬のオホーツクから漂流する青白く輝く流氷に柄にも無く詩情を感じながら盃を傾けていた. ところが,そのエキノコックス症患者が1965年(昭和40年)根室市で男性2名,翌年根室生まれ根室育ちで7歳の女児の発症が確認された.同症は潜伏期間が10年から15年といわれていることから根室地方が原発地と推定され,この日からエキノコックス症との深い付き合いが始まった. 道東の根室地方は昔から養狐業が盛んで野狐も多かったが,大正時代中部千島にロシヤ・コマンドル諸島から青狐等が移入され,また,彼の地の狐が流氷に乗り根室地方へ侵入し,道東地方に生息していた赤狐等に感染したものと推定されている. とはいっても多包条虫(Echinococcs multilcularis)とは初めて聞く言葉で,孫子の兵法ではないが「敵を知らば百戦危うからず」と慌てて参考書を漁るが殆の本には ![]() その後関係機関から多くの文献が手に入りホッとしたものであったが1966年(昭和41年)2月「根室市エキノコックス症予防対策協議会」が設立され,北海道大学や北海道衛生研究所の指導と近隣保健所獣医師の応援を受けながら本格的対策が始動した. 協議会の中での私の担当は,狐・犬・野鼠等の媒介動物,飲料水等の疫学調査である.当時,根室地方には500頭から1000頭に及ぶ程多数の野狐が生息しているといわれ郊外でもその姿は散見されていた. 古老の話によれば狐は人を化かすといわれるほど狡猾で鉄砲ならいざ知らず素人衆に捕れるものではないといわれたが,盲蛇に怖じずとかで,時折農家の鶏舎等を襲う場所を聞込み,数日分の餌を入れた檻にグラマーな生きた鶏を入れ,その周囲にトラバサミを仕掛け狐の出没しそうな場所に設置し固唾を呑んで見守ったが,初めの2〜4日は狐に近づかれ羽ばたいた鶏の羽が散乱していたが,彼らは注意深いというか猜疑心が強く愚かな人間のように据え膳には直ぐには飛びつかない.しかし,6日目にはその理性も限度になり,恋に狂った娘道成寺の清姫のごとく本性をあらわしトラップに捕ってしまう. その後何度もこの「チキン作戦」を実施したがいずれも一週間程で捕獲できたことは面白い経験であった. 狐捕獲と平行し野犬捕獲も実施し帰庁後試験検査室で小腸上部を切開し腸内容物を除去,腸壁を実体顕微鏡やルーペで目視しながら絨毛の間に吸盤等で吸付いている2〜4mmの虫体の検索や,また同時に行われた野鼠の肝臓を中心に剖検,日中も保健所内に糞の悪臭が漂い業務に支障があると苦情をいわれたものであったが,若かったこともあり使命感に燃え連日夜の徹するのも忘れ悪臭のなか剖検に打ち込んだあの時期は獣医師としての私にとって生涯忘れられない想い出である. 結果,疫学調査開始した昭和41年礼文島以外で初めて2頭の犬と狐1頭の小腸から多数の多包条虫寄生を確認,また日本で初めて中間宿主である野鼠(ミカドネズミ)の肝臓から多包虫を発見したことは,疫学調査を通じてエキノコックス症防渇対策の一翼を担い些かの貢献をしたことを誇りとするが,本来ならば山野を駆巡り平和な生涯を送る筈だったろう野狐や野犬を捕獲処分する時の敵意と哀願の織り交ぜたような彼等の眼差しを時折想い出すのも馬齢を重ねた所為なのかも知れない. 昨年,日本獣医師会雑誌(2005年9月号)に『地域における小動物医療の昨今と現状』のタイトルで土井口修先生(熊本県獣医師会)の所見が掲載されていたが,そのなかに臨床獣医師の年代別位置付けを,第一世代(70歳以上)第二世代(60歳位)第三世代(50〜40歳台)と第四世代(30歳台)と分類されていた.その発想の面白さに共鳴し,臨床家ではないが,八十路を目前にした老い先の短い第一世代の獣医師の一人としてあえて戯言を記録し,戦後育ちの若い人達には想像もつかない波乱の時代のあったことを脳裏の片隅に挟んでいただければと筆を執った次第である. |
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