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紹 介

戦時下,南方の島での軍馬の行く末
(「或る陸軍獣医官の記録」から)

森 徹士(もり動物クリニック院長・鳥取県獣医師会会員)

 これは意図した訳ではなく,他のことを調べている時偶然見つけ出した60年前の獣医師の記録である.
 折りしも今年は戦後60年,南の島で戦死した祖父のことを知りたく軍事・地理・歴史的背景をこの正月から素人ながら調査していた.祖父は昭和16年9月当時働いていた福岡県にて召集され,20年2月南方はインドネシア領ハルマヘラ島にて戦病死するまで一切が不明で,親族の誰も知るところではなかった.もちろん遺骨も遺品も還って来なかったため,死亡時の状況ならびに埋葬地の特定が可能か否か広範囲に亘って調べ上げた.本籍地の広島県庁援護課より輜重兵であったのをつきとめ,それでは軍馬を牽くことも当然あり得たはずだ,といろいろ調べていくうちに「病馬廠付獣医」の資料に行きついた.その記録からハルマヘラ島における多くの軍馬の悲惨な歴史的事実と当時の陸軍獣医官の苦悩の日々を知るに至った.
 昭和19年5月彼らの部隊(第32師団病馬廠)の南方転進に従って,中国大陸から1,300頭あまりもの軍馬が同島に向けて輸送された.しかし,5艘の輸送船に分けて搭載されたもののルソン島沖とメナド北方海上において敵潜水艦の魚雷が命中し2艘が轟沈し,実際上陸できたのは800頭であった.
 ところが,いざ馬を揚陸させてみると,ジャングルに被われた陸路のない火山島で軍馬の働く場がまったくなかった.馬は最初から無用の長物でただちに師団の大きなお荷物となった.何とか交渉の末,6月末には300頭をフィリピンのセブ島と西隣のセレベス島に送り返しているが,その後米軍に制空制海権を奪われ,以来港へ寄る船は激減し島は次第に孤立化してしまった.したがって送り返されるはずの約500頭の馬は厄介者として島に取り残されてしまったのである.
 当時の現場の状況を断片的にしか解すことができないわれわれには,おおよそ伺い知ることのできない事情が多々あったことも考慮せねばならない.しかし,何処が決定を下すのかはあえて書かないが,ここでも莫大な費用と犠牲を投じて,無知と計画性の欠落を露呈させていることが容易に指摘できる.
 悪いことはさらに続き,馬糧の補給も期待できず栄養失調で斃れる馬が続出した.緑あふれる南海の島で馬の餌には事欠かないだろうと考えがちだが,密林の草は消化が悪く栄養も不足し,決して好ましい物ではなかった.さらに気候温和な中国大陸から冬毛のまま赤道直下の炎熱酷暑の島に押し込められ,著しく体調を崩したことも大きな原因のひとつと考えられる.戦記には輓馬などの大型種が意外に弱く次々と斃れ,大陸馬などの小型種は比較的強かったと記述されている.
 また飼育管理する人員も不足したため,全島内の各部隊から獣医少尉をはじめ多くの兵が動員されたようである.それにしても連日のごとく数頭の馬が斃死する中,病馬廠獣医は必ず一頭一頭解剖して原因を究明し,丁重に埋葬したという.語るは簡単だが大変な作業である.そのため彼らは栄養失調の馬の治療と解剖に明け暮れて,この合間に蒸留水を作り,栄養注射用のブドウ糖液・Ca液の作製に懸命になっていたようである.余談だが,兵站病院の衛生兵もこれを持ち帰ったとの記録もあるので人体にも使用した可能性も否定できない,というより恐らく使ったのであろう.信じ難い話だが,同島の主要医療機関である第126兵站病院の戦友会誌には「医薬品が枯渇したため,椰子の実の汁を栄養注射し多くの患者を救った」との元軍医の赤裸々な体験談を読む機会を得た.精製はどのようにしたかは記載されていなかったが,嫌悪感を覚えるより驚きと同時にむしろ敬意を払いたい,さらにその智恵と勇気に感服した.
 ハルマヘラ島において馬のみならずほとんどの兵が食料不足で飢え,それが原因で脚気・悪性腸炎が蔓延していた.そんな非常時に必要のない馬を何故最初から食用に供さなかったのか,先ずそのことが疑問に感じられた.他にもマラリアや赤痢・結核で亡くなる兵が続出する中,動物性蛋白源として重宝したであろうに彼らは栄養補給の必要に迫られなかったのか.当然馬肉の食習慣のあった地方出身者もいたと思われるが,考えられる理由は軍隊にあって馬を「家畜」というより「武器」とみなしていたため,安易に殺処分できなかったのではないだろうか.真偽の程は不明だが,他の兵隊の戦記や戦争体験談にも(ニシキヘビや大トカゲは食べたが)軍馬を食した記述はとうとう探し出すことは叶わなかった.われわれが予想する以上に愛馬精神を持ち合わせていたように,これらの記録からは推察できる.
 また慢性的な餌不足,人手不足,設備不足,医薬品不足などあらゆる不足づくめから病馬に費やす労働に酷使される中,時々巡回に来る参謀は具体的かつ有効的な方法を命ずる訳でもなく逆に邪魔者扱いするだけだったという.挙句の果てには「もっと頭を使え」と叱責される始末だったと落胆している.一向に解決の糸口すら見出せず日々の過酷な労働に追われ,病馬廠の関係者らがそのジレンマに悩み苦しんでいる様子が想像できた.
 幸運というべきか同島では米軍の上陸はなかったため地上戦こそなかったものの,空襲が次第に激化し戦友が一人減り二人減っていく中,生き残った軍馬は新たな病気で斃れていくことになる.それまで粗食に耐え忍んできた小柄な大陸馬が次々と疝痛症状を呈し死んでいった.剖検すると結腸に多量の砂が溜まる「砂疝」である.原因は中国から一緒に持ち込んだ高粱(コーリャン)に砂が混じっていたとも,あまりに馬糧が不足し食べこぼしを舐め回しているうちに胃腸内では砂が蓄積し発症したのではないかと書かれてある.
 さらに当地は雨季に入り終日雨に打たれた馬が毎日のように衰弱死していった.そして昭和20年3月に至り筆者らが管理していた馬の最後の一頭が死んだ時自失呆然となったと述懐している.手記には多くの馬が何のために島に運ばれ,自分は何のために連日連夜治療に解剖に奮闘努力したのかを悶々と自問自答している.彼の悲壮感に満ちた落胆振りをその文面から想像するのはきわめて容易であった.
 そして終戦を迎える8月15日頃には全島に生き残った馬はほとんどいなかったという.約一年前中国大陸を出港した1,300頭の軍馬は(送り返された300頭を除いて)何をする訳でもなく全滅するに至った.海中に没した馬,餓死した馬,環境の変化に適応できず衰弱死した馬,空襲・艦砲射撃により爆死した馬,機銃掃射にて戦死した馬,事故死・病死した馬,まるで死ぬためにこの島にやって来たかのようである.
 60年前のハルマヘラ島での惨事は戦禍全体から見れば,ほんの氷山の一角かも知れない.しかし「戦争に利用された動物」について改めて考えさせられた.軍馬のみならず軍用犬・鳩・イルカに至るまで利用できるものはすべて総動員するのが戦争である.それは大東亜戦争に限らず洋の東西を問わず古代から近代戦に至るまで同様であろう.大儀を唱える戦争論理と実際命を曝け出す戦場との交わることのない葛藤,そして教育を受けあるいは徴用されともに生活し行動した動物達が戦争の犠牲になる事実が確かにあった.それを目の当たりにした「或る陸軍獣医官の記録」を読んで,獣医師の時代の変遷とともに翻弄される「様」を強く深く感じ入った.そして同時に,学生時代や駆け出しの頃,出征経験のある先輩獣医師が大勢おられたのを想い出さずにはいられなかった.生の貴重な体験談や思惑をいくらでも訊けたはずなのに,勿体ない時間を過ごしたような気持ちになった.そして先人から学ぶべき点は多いと今更ながら痛感すると同時に,戦史を知らずして戦争の賛否を論じるのは愚の骨頂であると悟った.そのことは如何なる理由があるにせよ戦争も動物を戦争に利用することに対しても当然寛容になれるはずはないが,将来や現在を考える上で先ず歴史を学ぶことから始まると教えられたような気がしてならない.
 生憎祖父の遺骨の所在と埋葬地を特定するにはあまりに歳月が経ち過ぎたためか正確な情報に乏しく,決して満足のいく成果は得られなかった.しかしこの調査を通じて多くを学び貴重な経験を積んだと実感したことが最大の収穫と言えるのかも知れない.この軍馬の逸話もあるいは輜重兵だった祖父が,獣医師という職種に就いた孫に引き会わせてくれたに違いないと信じている.せめて千鳥が淵(無名戦士の墓苑)に納めてあれば墓参に駆けつけるのだが,戦後一度も遺骨収集されること無く,復員兵とともに無言の凱旋さえ許されなかったハルマヘラ島には,今も尚幾千もの英霊とともに500頭あまりの軍馬が永久の眠りについているのである.今年は奇しくも戦後60年,昭和80年でもある.同じ獣医師として語り継ぐべき史実と仰ぎ投稿した.

 

参  考
[1] ハルマヘラ戦記,ハルマヘラ会発行(昭和51年)
[2] ハルマヘラ日記壕北戦線700日(前会長の遺稿)
   http://nishiha.fc2web.com/harumahera/index.htm
[3] 『ハルマヘラの追憶』元・第126兵站病院戦友会「春輝会」平成2年発行

[4] 春輝会誌,第9(昭和44年),10,11,12,13,14号33号(平成5年)

[5] ハルマヘラ,モロタイ勤務大隊日記,寺西憲一著
[6] 陸軍兵籍簿,広島県援護恩給室
[7] 千鳥ケ淵戦没者墓苑の近況
   http://homepage2.nifty.com/boen/boen03.htm



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