|
― 平成16年度特定疾病専門家養成事業海外派遣報告 ―
ロンドン大学衛生・熱帯医学校感染症数理モデル短期
コースに参加して
佐藤国雄†(動物衛生研究所疫学研究部疫学情報室長)
現在筆者は牛伝染性鼻気管炎(IBR)のリスクアセスメントという研究課題に取り組んでいる.この課題の中で最も大きな疑問は『ある農場でIBRが発生した場合一体何頭の牛が感染し,何頭の牛が発症するのか』というものである. 2年前ハーバード大学のリスクアセスメントのセミナーに参加したとき,S-I-Rモデル(感受性―感染―回復)というように牛群をコンパートメントに分けて,それぞれのコンパートメントの数の変化に関する微分方程式を解けばある程度の解決が得られることを知った. その後自力でこの方程式を解こうとはかなり数学の勉強をしたが解くことはできなかった.そんな時,ロンドン大学衛生・熱帯医学校(London School of Hygiene & Tropical Medicine―LSHTM)の「感染症数理モデル短期コース」の存在と内容を知り,参加を熱望していたところ,幸運にも日本獣医師会の特定疾病専門家養成事業によりロンドン大学に派遣された. |
1 ロンドン到着 入管で観光旅行といえばよかったものをロンドン大学の短期コースに来たといってしまい,在学証明書を示せといわれた.やっと探した証明書を出したら,授業料の支払いは終わっているかときかれ,「Already」と答えてようやく入国した.せっかくロンドンに来たのだから景色を見ながらホテルに行こうと思い,地下鉄でなくバスでロンドンに向うことにした.しかし,大きな荷物をかかえてのバス停探しはなかなか大変で,ホテル到着は20時過ぎになった.ロンドンはまだまだ明るかったが,疲労で学校の下見はできなかった.また時差ボケのため睡眠できないまま長い1日が終わった. |
2 感染症数理モデル短期コース ロンドン大学衛生・熱帯医学校はハーバード大学公衆衛生校と並んで公衆衛生分野の公務員養成大学院として有名であることを帰国後に知った. 筆者が受講したLSHTMはロンドンの北西部にあり,大英博物館の北側に位置している.方向音痴なのでLSHTMは博物館の北側というロケーションを帰国までどうしても頭と体で覚えることができなかった.このため講義初日にはホテルまで5分の道がわからずパソコンや講義資料など重い荷物を抱えて1時間以上ロンドンをさまよってしまった.ロンドンの日暮れが9時過ぎだったので明るいうちにホテルを見つけたときは心からホッとしたが,肩にあざができていた. このコースの責任者のFine教授は疫学の先達であるジョン・スノー協会の会長でもある.Fine教授は昨年の秋引退され,このコースの継続は不明なのでその意味でも今回の参加は幸運であった.コースの講師の先生は数学がバックグラウンドの女性研究者が多いようであった. 参加者は世界各国からまたWHOなどの国際機関などから60名であった.日本からの参加者は筆者一人であったが,インペリアルカレッジで感染症の数理モデルの研究をしている西浦先生の参加は心強かった. 大学での2週間のスケジュールは9時半から18時半までで午前,午後あわせて2回90分の講義,演習,著名研究者の1時間の講演というかたちで進んだ.昼休みの時間がないのが英国流である. |
3 講義,演習で学んだこと 感染症の数理モデルの基本は,たとえば麻疹では感染宿主をSusceptible(感受性)→Infected(感染)→Infectious(ウイルス排泄)→Recover(回復)(SIERモデル)というようなコンパートメントに分け,各コンパートメントの数の変化を微分方程式で表現し,時間の経過につれて各コンパートメントの数の変動を求めるものである.このようなコンパートメントモデルは感染症の生態を考慮して構成される.淋病では治療が終わるとまた感受性に戻るのでSusceptible(感受性)→Infectious(感染期)→Susceptible(感受性)の形のモデルが考えられている.また,数理モデルはマラリアのモデルから始まったので媒介昆虫と哺乳動物の二つの宿主を持つアルボウイルス感染症の予測にも有効である. 上記の微分方程式のパラメータを求めるための最も基本的な概念は基本再生産数(the basic reproduction number)である.英国人はR naught(アールノート)といいオランダ人はR0(アールゼロ)と言っていた.1頭の感染動物がすべて感受性動物の集団に侵入したとき感染性のある期間中(1世代)に新たに生み出す2次感染動物の数である.SARSのサイエンスの報告では2.2から3.6であった.麻疹であれば10ぐらいである.R0は時代,社会,国,病原体などによって異なるので,感染症の伝播力を比較できる概念である. これは女性が1世代に産む子供の数の概念とまったく同じである.女性がネズミのように子供を産めば世代ごとにネズミ算で子孫の数が増える.しかし,女性が1人の娘しか産まなければ,その家系は増えも減りもしない平衡状態になる.1人以下になれば家系は衰退し絶滅する.感染症もまったく同様に説明できる.R0が1以上ならば感染者数が増加,1ならば感染者数は平衡状態,1以下ならば減少する.しかし実際の感染症ではR0を簡単に求めることはできないので,さまざまな手法が開発されている.ワクチン接種,隔離,検疫,殺処分などの防疫措置はR0を1以下にする手段である. また,説明は省くが,R0はハード(群)の感染予防に関係している.H=1−1/R0という関係がある.IBRの報告ではR0は7である.H=0.857つまり85.7%以上牛に免疫してあれば,IBRはこの群で広がることはない. |
4 講演から学んだこと 2週間のコースで数理モデルの分野の1流の研究者15人の講演を聴いた.それらの中で興味を引いたものは以下のようであった. インペリアルカレッジのアンダーソン教授は“Major areas of application of mathematical modeling in the epidemiology of infectious diseases.”という演題で感染症の疫学で今後期待できるモデルの研究方向として分子生物学の知見とモデリングを合体させることの重要性を強調した.教授はこの分野の第一人者で,バイブルともいえる「Infectious Diseases of Humans Dynamics and Control」の著者の一人である. インペリアルカレッジのAzra Ghaniの演題“Contact networks, population structure and the presence of bacterial STIs.”では,性交渉感染では個人のネットワークデータからモデルを構築すると現実的なモデルになることを主張した.個人のネットワークデータをいかに数学的に処理するかがこれからの課題である.これは農場間の感染症の伝播のモデル化するために重要な考えである. イムペリアルカレッジのBecca Asquithの講演は“How important is the CD8+ lymphocyte response in persistent retrovirus infection?”であった. 講演の内容は成人型T細胞白血病患者のCD8陽性細胞の機能をTAX 陽性CD4+細胞の溶解率でなく微分方程式の解として求め,患者の予後を予想することである.感染症の病態解析に数理モデルを使うことも今後可能性のある分野である. |
5 ロンドン見学 このコースの催しとして7月21日に疫学史上有名なジョン・スノーの井戸のあるソーホー地区にLSHTMから徒歩で出かけガイド付きで見学した.ジョン・スノーは1854年この地区に発生したコレラ死亡者の発生地図と死亡の日別分布を作成することより,井戸水が汚染源であることを突きとめ,コレラ菌発見以前に井戸の柄を取り,使用を禁ずることによりコレラの発生を終息させた.スノーの他,ニュートン,モーツアルト,マルクスなどがソーホー地区に居住していたのを知ってロンドンの歴史の深みを感じた. 23日ウォータールー駅近くのパブで会食したあと,ビッグベンのテムズ河対岸にある英国航空が経営するロンドンアイという観覧車に乗車しロンドンを上空から見学した.テムズ河は墨田川のようでとてもきれいな河といえないがロンドンアイからの夜景に浮かび上がるビッグベンは威容という形容がふさわしい建物であった. 28日“Anything goes”という有名なミュージカルを生で観た.歌詞は全然理解できなかったが,劇場の雰囲気や音の広がりでとてもよい気分になった.楽隊も含めて多くの出演者がいるので,ミュージカルを上演するには「膨大な収入が必要なんだろうなあ」としみったれた感想も持ってしまった. |
6 お わ り に インペリアルカレッジの西浦先生との話でなぜ英国でS-I-Rモデルのようなコンパートメントに分けるモデルが生まれたのかということになった.筆者は休日にアスコット競馬場で入場料によって入場が許可される場所や装いまでも異なる階級社会の伝統を経験して,階級社会が色濃く残りそれを維持しようとする意思のある社会の産物ではないかと思った.ちなみに筆者の隣は労働者風の老人であった. 今回の研修で一番うれしかったことは,「感染症の数理モデル」の研究を続けるために何を学べばいいのかを知ったことである.あらためて派遣の機会を与えてくれた日本獣医師会に感謝申し上げたい. |
(注)日本獣医師会においては,平成15年度から,(財)全国競馬・畜産振興会の助成を受け,臨床獣医師研修事業(特定疾病専門家養成事業)において,特定疾病の予防等に関する知見等の情報収集のため,獣医技術者を海外に派遣し,専門家養成を行っている. 著者は平成16年度において,特定疾病専門家養成事業に参加し,ロンドン大学において感染症数理モデルの講義を受ける等した. |
† 連絡責任者: | 佐藤国雄(動物衛生研究所疫学研究部疫学情報室) 〒305-0856 つくば市観音台3-1-5 TEL 029-838-7706 |