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Okinawan Fortune Cooky
〜イノシシも歩けば〜
仲嶺マチ子†(沖縄県獣医師会副会長・沖縄県家畜衛生試験場長)
始まりはいつも偶然だった.それは二大培地メーカーの月刊誌の同月号に掲載された「お知らせ」だった.7月に1週間位の講習会がある.「夏休み」に丁度いい.しかし,マイクロピペット持参と書いてある.夜,家に帰って電話をする.「あの〜沖縄県家畜保健衛生所からですが……」,交換手の「エ〜!? オキナワ……の保健所!? どうやって電話をかけているのですか?」.アフリカでもなく遙か彼方通信手段不可能な宇宙からのメッセージを初めて受信した人類のように動揺した声が流れてきた.約15分ほど会話の後,H.
G. ウェルズの世界からようやく抜け出した彼女は「ま〜ま〜ま〜,教授は乙女のような方です.心配いりませんよ! 今,お繋ぎします」.「はい」微かなゆっくりとした優雅な声「用意されています.持って来なくても間に合うだけの本数ありますよ」.その後も,同交換手には助けられた(情報を教えてくれた). 思い立ったら直ぐ行く! 岐阜はその夏,蒸し暑かった.人数約40名ほど.医薬品,食品,洋酒・ワイン・ビール,洗剤,カメラ等メーカー,研究所,大学,外科医,etc……賑やかな活気に溢れていた.「教授の同級生?」「DNAは戦前から在ったのですか? って質問して!」.亀が亀の子タワシを囃したてるように彼女,彼らはけしかけた.講師(現教授)は唾をごくっと飲み込んでから,「ハイ」と消え入るような声で答えた.仲良しグループができ,医薬品,食品,ワイン,洗剤メーカー,外科医達とのお喋りの輪の傍らを講師(現教授)が通り過ぎ,クルッと引き返し近寄って来て言った.「私に菌株を分けていただけませんか?」帰りにビールを飲もうというようなたわいもないワイワイガヤガヤだったが.その日,歩いて10分ぐらいの道路際にロープで囲んだ空き地に椅子とテーブルを置いただけの青空ビアガーデンで,日が暮れるまで続きのお喋りをした.(翌年,そこは駐車場になっていた). 約束の菌株を運んで行った頃は,クリスマスのイルミネーションが輝くシーズンになっていた.二度目にお会いした教授は「一緒にニューオリンズに行きませんか?」国内の学会も知らないのに,いきなりAmerican Society for Microbiologyの学会! 帰りにロスアンジェルスのダウンタウンにあるちぃちゃなチャイニーズレストランで私がつまみあげたfortune cooky「色んなことあるが最後はhappyになる」と同席の英語に堪能な方々が訳してくれた.ビール「MICHELOB」のクリィミィーな泡と一緒に飲み干した. 頻繁に教室に出入りするようになったある日,講師(現教授)が言った.「学位を取る気があればこれからも来ていい.その気がなければ二度と来るな」.「私は40を過ぎています」.教授は「何事かを始めるのに丁度いい歳です.私がアメリカのヒュー先生(O-Fテスト,培地の考案者)のもとへ留学した年頃です」.と諭すように言われた.友人に話した.「そんな話聞いたこともない.ほんとに教授だったのか!? 大学の廊下で偶然出くわした詐欺師かいかさま師じゃなかったのか!? やめとけ! 昼行灯だからそんな目に遭う.世の中,そんなうまい噺がある道理がない」.知り合いから電話がかかってきた.「どうしたら教室に入れるのか?」「全部,教授が手続きしてくれたから,よく知らない」.ガチャリと電話は切れた. 煌めくような時は過ぎ,突然,身体の中心で,遠い国でおきているようなチェチェン紛争が自分自身に勃発しようとは! 「他人」のように思える椅子に座り,陽当たりのいい窓から“秋色のピンク”として国道329号通りを和ませているトックリキワタの樹々を眺めながら,ゆっくりと和平への路を歩む.クリスマスはまた巡り,花は冬空色をバックに数える程になった. 沖縄の一口話.「人生で最も困った時に開けるように」と友人から手渡された“おひねり”のような紙の小さな塊を,崖っぷちに立つ状況にいよいよ追い込まれた彼は,「絶対にお金に違いない!」と期待に胸を膨らませ,焦る気持ちを抑えながら,“おひねり”のような紙を開けて見た! 中には「なんくるないさ!(自然に成っていくヨ)」と書いてあった. 「他人」のように思えた椅子は薔薇色の椅子に替わり,身体の市街戦も沈静化の兆しが見え始め,新しい年を迎えようとしている. |
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† 連絡責任者: | 仲嶺マチ子(沖縄県家畜衛生試験場) 〒900-0024 那覇市古波蔵112 TEL 098-832-1515 FAX 098-853-7376 |
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