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意見(構成獣医師の声)

医薬品における特許権保護のあり方
- 知的財産は何を守るか?-

津田明子,小沼 操
(北海道獣医師会会員・北海道大学大学院獣医学研究科)

 現在,世界では生命よりも特許の保護が優先されてしまうという事態が起こっている.特許権の強化が国際的に進められることによって医薬品の価格が高騰し,途上国に必要とされる医薬品が届かないというTRIPs医薬品アクセス問題が発生したのである.
 TRIPs(Agreement on Trade-Related Aspects of Intellectual Property Rights・知的所有権の貿易の側面に関する協定)とはWTO(World Trade Organization・世界貿易機関)設立協定の付属書であり,特許保護の世界的な強化,促進を目的とし,1995年に発効された.WTOに加盟する148カ国はすべてTRIPsに従わなくてはならない.そしてTRIPsでは従来と異なり医薬品関連開発についても他の産業分野と無差別に特許の保護を認める国内特許法を制定することが義務付けられる.もともと医薬品は「薬九十倍(くすりくそうばい・薬の原価は販売価格の90分の1という意味)」という言葉もあるほど,原価に対して高い値段設定がなされている.原価を除いた残りの価格は開発までにかかった研究費などの回収が目的で設定されたライセンス料がほとんどである.ところが途上国では高価な薬を持続的に大量に購入するのが困難である.そこで医薬品特許の規定範囲に制限をかけたり,医薬品特許を認めない等の国内特許法を制定することによりコピー医薬品,並行輸入を合法化し,自国内の医薬品をまかなってきた.しかしTRIPs発布後には,コピー医薬品の製造等は違法となり,その結果医薬品は高騰し,エイズ,結核,マラリアなどの多数の患者を抱える途上国に薬が届かなくなってしまったのである.これがTRIPs医薬品アクセス問題である.
 それに対し途上国側は,強制実施権(TRIPs協定第31条に規定.独占使用されている特許を自国内で強制的に使用することを認めさせる権利.つまり特許を無効にさせて,自国内でのノンブランド薬の製造を許可することができる)の許諾などの対抗措置をとった.しかし強制実施権の有効範囲は自国内で薬剤を製造,消費する場合のみに限られ輸出することはできない.一方,多くの途上国は自分達が必要とする十分な量をまかなえるだけの製薬設備はなく,コピー薬等の輸入という手段をとらざるを得なくなる.その例として挙げられるのが南アフリカである.南アフリカは医薬品の物質特許の規定がないインドの製薬会社から安価なエイズ治療薬を輸入しようとした.それに対し先進国の製薬会社39社はTRIPs協定違反だとWTO紛争処理委員会に提訴したのである.この訴えは後に世論の高まりなどにより取り下げられたが,南アフリカと同様に自国内に製薬設備のない多くの途上国には,依然として安価な薬が届かない状態が続いた.またコピー医薬品の提供ができる製薬会社があるインドも2005年にはTRIPsに準じた特許法に改正予定であり,それ以降は安価なコピー医薬品の製造は難しくなると言われている.
 そこで世論の高まりの後押しもあり,2001年のWTO閣僚会議においてドーハ特別宣言が採択された.この宣言では特許権の保護よりも感染症などの公衆衛生上の重大な問題を優先させることを認めている.これでようやく医薬品の生産能力が不十分,もしくはない国であっても,強制実施権によって製造されたコピー医薬品を輸入することが認められた.しかしなかなか各国の合意には至らず,実際にこの宣言が効力を持つことができたのは2003年8月になってからであった.そして現在でも医薬品アクセス問題に関して,TRIPs協定の改正も含め論議が続けられている.
 ところがさらに新たな別の問題が生じてきた.新しい医薬品の開発には長い時間と巨額の資金投入が必要である.しかし途上国による強制実施権の実行などによって,せっかく研究開発した薬の特許がいとも簡単に無効にされてしまうのならば,途上国で流行している感染症に対する薬を開発しても見返りが少ないと製薬会社は判断してしまうのである.それでなくとも途上国向けの医薬品は需要はあってもそれを購入するだけの資金を持っている人が圧倒的に少ないために,途上国でのみ流行するような熱帯感染症に対する新薬は,新しく開発される医薬品全体の1%にも及ばなかった.そこへもってきてこのドーハ宣言の採択により,製薬会社の熱帯感染症関連医薬品への研究開発はさらに減少することになってしまったのである.
 医薬品というものは車や電化製品などとは違い,生命に関わる製品である.そのため製薬会社には道義的,人道的責任というものが生じてくるといえるであろう.しかし商業的利益が理由で,約50万の患者が存在する致死性熱帯病の一つであるトリパノソーマ病(眠り病)の特効薬エフロルニチンの製造が1995年に止められてしまった.他にもスラミンやニフルチモックスといった同じく眠り病に効果がある薬も生産中止の危機にさらされた.もちろん製薬会社にすべての人道的責任を押付けるわけにはいかない.営利企業であるかぎり利益を重視するのは当然のことである.しかしこのような製薬会社の対応で,生命に危機をもたらす状況を生むことも事実である.
 また製薬会社は高いライセンス料の保護が新薬の研究開発には必要不可欠だと主張するが,医薬産業というのは他の工業,食品産業などよりもはるかに高い収益をあげることが可能であると言われている.たとえば一般的な企業では平均利益率が10%を越えれば優良企業とみなされるのだが,1999年の主要な多国籍製薬企業の平均利益率は30%,製薬業界全体でも18.6%であった.またすべての医薬品が製薬会社で研究開発されたわけではなく,公的機関で開発されて,製薬会社に特許委譲されたものも多くある.高い薬価に対する支払いの大部分を支えているのは結局のところ税金を元にした各国の医療制度であり,製薬会社が主張するほどの高い薬価の設定,ライセンス料の保護が本当に必要なのかは疑問の残るところである.
 さまざまなNGOやWHOなどによる努力で,先に述べた眠り病の特効薬の製造再開などが行われている.また一部の製薬会社で非営利での熱帯病の新薬研究開発,供給が行われ始めている.しかしながら先進国は,自分達にとってより有利になるように圧力をかけて特許制度を整備している.その結果新しく開発された薬の価格は高騰し,多数の途上国の患者は薬に手が届かないという事態はいまだ解決していない.日本も特許制度の保護を促進する先進国である.資源のないわが国にとって,特許権による国際競争力の獲得は将来的に重要な位置を占めていくであろう.政府は「知的財産立国」を国家的事業と位置づけ,今や医薬品だけでなく医療関連行為にまで特許保護を行うことを検討している.たしかに特許権の保護により,バイオ産業や医薬品産業は活性化する.しかし特許による知的財産の保護がどんなに大事であるとしても生命に優先するものではないはずである.医薬に関する特許については経済力の弱い人々にも同じようにその知識の恩恵が受けられるように,慎重にその適用,効果を考えなければならない.今後は獣医学・農学研究領域においても特許,知的財産保護関連の話題がさらに増えてくると予想される.もしもその発明,知識が疾病,食物など生命倫理に関するものであった場合,その特許が何を意味するのかを広い視野にたって深く考える必要がある.特許により一部の人間の巨額の富を保護し,多くの生命が犠牲にされるということは許されることではない.知識を活用するのは素晴らしいことである.しかし本当の意味で「知的財産立国」であるためには高邁な精神と品位を持つことが一番大事なことだと考える.



† 連絡責任者: 津田明子
(北海道大学大学院獣医学研究科動物疾病制御学講座感染症学教室)
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