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紹 介

戦地から生還した,たった1頭の軍馬

竹澤哲男(岩手県獣医師会会員)

 昭和12年(1937)7月7日,勃発した支那事変(日中戦争)から大東亜戦争そして,昭和20年8月15日敗戦までの間,軍役に服した軍馬は100万頭ともいわれている.敗戦により残された馬は,現地で戦勝国に引渡された.その中で第37師団はタイ国で敗戦となり,英軍に約3,100頭の軍馬を引渡した.そして,英軍によって全頭銃殺された.なかでも山砲中隊の場合,約100頭に対し拳銃1丁と実弾100発余を支給されて,中隊先任下士官以下数名で子馬まで射殺した.日本軍の嘆願も,農耕に使いたいという土民の要望も一切受付けず,鬼畜にも劣る英軍の仕打ちであったという.
 大東亜戦争の始まる前年の昭和15年1月,中国(支那)大陸から下川部隊とともに生還した,たった1頭の軍馬が「勝山号」である.
勝山号は昭和8年5月7日,岩手県九戸郡軽米町の鶴飼岩松氏の厩で生まれ,所有者の鶴飼清四氏に「第三ランタンタン号」と名付けられた.翌年10月行われた,九戸郡産馬畜産組合の軽米掫市場で,岩手県江刺郡岩谷堂町(江刺市)の家畜商,高橋儀左衛門氏が購買した.その後,同町の伊藤新三郎氏に売却された.
 第三ランタンタン号は,昭和12年9月5日に徴発されて軍馬名「勝山号」と改名された.同月末には支那大陸で転戦,加納治雄,飯場國五郎,布施安昌,下川義忠の各部隊長乗馬として活躍した.その間,加納,飯塚部隊長が戦死.勝山号も三度の重傷を負い,生死の界をさまよったが,獣医官達の手厚い看護によって奇蹟的に恢復し,また,軍役に服し,布施,下川部隊長を背に活躍していた.これらの功績が認められて昭和14年10月11日,金鵄勲章に相当する「甲功章」を,陸軍大臣畑俊六大将から戦地第1号としての表彰を受けた.
 昭和15年1月,勝山号は下川部隊とともに日本に帰還し,近衛第3連隊,次に東部第62部隊の羽鳥長四郎部隊長の乗馬として奉公していたが敗戦になり,日本馬事会から勝山号を至急受取られたいとの速達が,伊藤新三郎氏に届いた.そして,ご子息の貢氏が上京して苦労の末,昭和20年10月17月に勝山号を連れて帰った.
 勝山号は戦傷による後遺傷再発,治療を受けたが,昭和22年6月4日死亡した.最後の軍馬の遺体は伊藤氏の裏山に埋葬された.
 昭和54年1月,勝山号の生産地軽米の鶴飼光行氏(清四氏の孫)によって,自宅の裏の小高い所にある,蒼前神社の境内に「甲功章受賞軍馬生産の地,名馬勝山号」と刻んだ記念碑が建設されている.
 
勝山号の石碑
勝山号の石碑(昭和54年建立)
(鶴飼光行氏宅裏の神社境内にある)
 
勝山号
勝 山 号


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