「駕籠で行くのはお吉ぢゃないか,下田港の春の雨,泣けば椿の花が散る.」かの西条八十の作詞で昭和の初期に流行った「唐人お吉」の唄である.お吉は尾張で生れたが4歳で伊豆に移り,安政元年(1854)14歳で芸者になり下田の人気を集めた.当時西欧各国の船が日本に来だした頃で,嘉永6年(1853)米国東支那艦隊のペリー提督が軍艦4隻を率いて浦賀に来航して太平の眠りを覚まし,久里浜に上陸して幕府に和親条約を申し入れていた.翌年将軍専決で条約が結ばれ,2年後安政3年(1856)タウンゼント・ハリスが米国総領事として来日し,下田に近い柿崎村の玉泉寺に駐在する.
この時お吉と出会いがあり,町奉行の斡旋でハリスの側室となる.お吉17歳,ハリス53歳だった.しかし数日で解雇されるが,一度異人と交わったとして「唐人お吉」と世間から冷笑され,酒に溺れて不幸な日々を送り,50歳の時近くの川に身を投じ数奇な一生を終わる.
ところでハリスは,当時日本人は肉食をしてないことを知っていたとみえて,船に牛を載んで来ていたので後刻と殺して一行の食用にした.(この時牛を繋いだ武士柑の幹は,屠牛木として同寺の記念に今も残るという.)
安政5年(1858)に至り米国のほか蘭・英・仏・露の各国と通商条約を結ぶと外人の去来が多くなり,肉の調達が必要になってきた.その頃養牛も盛んになっていたので元治元年(1864),当時彼らの居留地として指定した横浜の海岸通りに,幕府は屠牛場の開設を認めた.こればわが国最初の屠場といわれている.
たまたま幕末の慶応2年(1866),三河の中川屋嘉兵衛が横浜に来て,外国語の修行といって米国人シモンズの使用人となり,傍ら元町で商売を始め,パン・ビスケット・薬品などの払い下げを受けて販売し,後に函館から氷を運んで売り時代の先端をいく商人になった.
彼は外国人御用商人となり,牛肉の販売も手がけるようになり,江戸の英国公使館に牛肉を届けようとするが長道中のため腐るので,江戸荏原郡白金村(現芝白金)の名主堀越藤吉から借りた畑で屠牛を始めた.慶応3年(1867)のことで,東京での屠場の開祖である.
当時牛を屠するのは大変で設備もなく,後々穢なきよう四方に青竹を立てて御幣を結び,それに注連縄を張り,この中で掛矢で牛の頭をゴツンと何回か叩き撲殺したという.皮を剥いで肉だけ切りとり他は地中深く埋め最後にお経を上げた.初め神式終りは仏式で面白い.
間もなく近所から苦情が出て,困った藤吉は畑に小屋を立て最初の屋根付き屠場となった.しかし,ここから屠場は環境公害との長い苦闘の歴史が始まる.
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