意見(構成獣医師の声)

産業動物医療の命題とは

萩原精一(北海道獣医師会会員)

  集団食中毒,BSEに端を発した“食の安全保障”への社会的関心の高まりは,産業動物医療の命題を変化させた.従前の産業動物医療はともすれば『畜主の要求』に応じる手段として,生産効率と利便性の追求を命題としてきた.しかし今日,『消費者の要求』が新たなる命題として比重を重くしている.『消費者の要求』とはいうまでもなく,安全・安心な農畜産物の供給である.
 動物医療は医薬品の使用なくして成立しないが,医薬品の不適正な使用は農畜産物の信頼を脅かしかねない.もっとも抗菌性物質製剤のように大半が飼料添加剤として用いられるために,治療薬の影響は小さいとの指摘もあろう.しかし繰り返される牛乳中の抗菌性物質の残留事故は治療薬を発端としており看過できるものではない.
 本稿の目的は酪農生産現場における「医薬品の慎重使用」について問題提起することにある.本稿には適切な表現に至らない部分,普遍性に乏しい記述があるかもしれないが,広く諸先輩,読者の方々から御指導,御鞭撻を賜りたい.

 1.乳牛診療の全体像
 日本国内の乳牛(生後6カ月齢以上)飼養頭数のほぼ半数(75万頭)は北海道で飼養されている.北海道では乳牛の約95%が家畜共済に加入し診療の大半が家畜共済(保険)によって賄われており,その乳牛診療件数は年間約60万件である.総診療件数の内,泌乳器疾患が約20万件,生殖器疾患が約16万件を占め,両疾患が全診療件数に占める割合は60%に及ぶ.医薬品使用頻度は当然にして両疾病に集中するが,泌乳器疾患の大半は“乳房炎”(乳腺への感染),生殖器疾患の大半は卵巣疾患等“繁殖障害”である.
 2.乳牛の乳房炎診療
 重篤な全身症状を伴う乳房炎症例では獣医師の往診が請われるが,それ以外の多くの症例では乳汁細菌検査と抗菌性物質乳房内注入剤(以下,乳房注入剤と略す)の処方が中心となる.乳房炎診療における獣医師の関与は通常,間接的である.すなわち乳房炎罹患牛の発見,乳汁の採材,乳房注入剤の投与,治癒判定までの一連を獣医師指導のもとに搾乳時に畜主が担うため,獣医師の関与は乳汁細菌検査と乳房注入剤処方に限られることが多い(北海道では一部診療所を除き乳汁細菌検査が普及している).畜主が乳房炎診療の主役を担う故に,その診療形態は当然にして畜主の利便性を追求した形態になりがちである.頻発する牛乳中の抗菌性物質残留事故の原因については諸説あろうが畜主の管理ミスによるところが大きく,乳房注入剤の大量処方がその温床になることもあるようだ.
 従前の産業動物医療は『畜主の要求』に応じる手段として,生産効率と利便性の追求を命題としてきた.それ故に乳房注入剤の大量処方は『畜主の要求』を満たす診療形態と言えよう.
 3.乳牛の繁殖障害診療
 繁殖障害診療は獣医師の牛群への関り方によって3種に大別される.すなわち[1]獣医師が個体毎の往診依頼に応じる一般個体診療,[2]獣医師が繁殖情報を管理し定期的に往診する定期繁殖検診,[3]さらに獣医師の関与が飼料設計等の飼養管理指導にまで及ぶ生産獣医療(所謂Production Medicine)の3種に分類できよう.
 診療形態に差異があっても,繁殖障害診療の多くは「早期の人工授精を望む畜主に応えるためにホルモン剤を応用し発情を誘起せしめる行為」と換言できる.繁殖障害診療の大半は,搾乳牛へのホルモン剤投与により効率的な人工授精を実現させる手法であり,需要者:畜主にとって『畜主の要求』を満たす魅力的な商品であり,供給者:獣医師にとっては効率的に診療費を稼ぐ手段となるが,食の安全=『消費者の要求』を脅かすことになりかねない.すなわちホルモン剤投与を受けた搾乳牛からの生産乳は食用等の目的での出荷が禁止されているが(期間は製剤により異なる),多頭数飼養の牛群にホルモン剤を多用した場合,出荷制限期間が完璧に遵守されているとは考え難い.出荷制限期間遵守の不徹底を単なる憶測と断言できる臨床獣医師はほとんどいないだろう.
 繰り返すが,従前の産業動物医療は『畜主の要求』に応じる手段として生産効率と利便性の追求を命題としてきた故に,ホルモン剤多用は必然の診療形態であった.現在,高泌乳を追求した飼養管理,飼養規模拡大,労働力不足等の諸事情により分娩間隔は延長する傾向にあり,それに伴いホルモン剤多用を求める畜主の要求は強くなる一方である.ホルモン剤多用の意義を疑問に感じている臨床獣医師は多いに違いない.
 4.医薬品の慎重使用の限界
 医薬品の慎重使用は『消費者の要求』の一つであろう.医薬品の慎重使用に徹した診療形態は理想的ではあるが,現実の産業動物医療は畜主の要求に応えざるを得ないため,医薬品の慎重使用を獣医師に求めても自ずと限界がある.極言するならば多くの乳房炎・繁殖障害の場合,医薬品使用の主導権は畜主が掌握し,獣医師は畜主に追従しているにすぎない.
 たとえば繁殖障害牛の診療を請われた獣医師がホルモン剤投与無しに診療を終えることは,顧客たる畜主の要求を拒むことになり,その獣医師は畜主から敬遠される.繁殖障害の原因療法として理論上は飼養管理指導が適当なのだろうが,畜主にとっては“人工授精に到る発情”が必要なのであり,その要求に応じるべく獣医師は発情誘起の手段としてホルモン剤を投与せざるを得ない.
 また獣医師自らがホルモン剤多用による診療形態を積極的に展開している場合,獣医師自らが医薬品の慎重使用を軽視しているだけに,問題はより深刻だ.ホルモン剤が繁殖管理の手段となっている以上,その慎重使用は期待出来ない.
 5.問 題 解 決
 医薬品の慎重使用は徹底すべきであり,その責任は臨床獣医師の双肩にかかっている.酪農のみならず国内畜産業の存続条件は,安全・安心な農畜産物の供給による『消費者の要求』の充溢にあることは論を待たない.医薬品の慎重使用を無視した産業動物医療は畜産業本体の信頼を失墜させかねず,その回避には産業動物医療の命題を“量”と“質”が均衡するものに改めねばならない.すなわち従前の『畜主の要求』に応える産業動物医療は“量”(乳生産量等)を命題として生産効率と利便性を追求してきたが,『消費者の要求』をも勘案する産業動物医療には“質”(家畜の健康,医薬品の慎重使用等)を命題とし安全・安心の追求が求められる.
 臨床獣医師の行動原理に“質”を加え,安全・安心の追求を実現するには,まずもって獣医師自身の意識改革が必要である.獣医師は“食の安全保障”を担うべく社会の付託を受けており,ただ単に『畜主の要求』に応えるだけでは,もはや産業動物医療の命題として不十分であることを再認識すべきだ.獣医師の意識改革無くして,畜主への説得は当然のこと,問題解決の端緒を掴みようがない.
 しかし問題解決のすべてを臨床獣医師に委ねるだけでは,真の解決には至らない.真の解決には問題認識の枠組みを生産現場から社会全体に拡大し,大局観に根ざした方策が必要である.獣医師は従前より公衆衛生分野で環境の安全保障を担ってきたが,その対象を生産段階の食品にまで拡大することは,獣医師の本分として当然ではないだろうか.現在,さまざまな業種業態において生産履歴情報の構築が進められているが,雑多な観が否めず,且つ生産者自身による情報開示であるため,第三者によって信憑性が確保された情報ではないことが多い.生産履歴の信憑性を確保する第三者として獣医師以上の適任者は存在しないのではないだろうか.現在,生産者団体等が生産履歴情報を構築するにあたって,診療履歴の提供が獣医師に求められているが,本来これら情報管理は獣医師自身が自主管理し消費者に提供すべきものではないか.“食の安全保障”を求める消費者動向は情報化時代の潮流であって,一時の流行ではないだろう.
 獣医師による診療履歴開示は畜産業の信頼構築に寄与するとともに,医薬品の慎重使用を実現する担保になり得る.具体的には診療履歴開示を社会監視の手段とすることで,不適切な『畜主の要求』の抑止が可能になるのではないか.また飼養形態の方向性を“量”から“質”に転換させ,獣医師による“質”の客観評価に根ざした農畜産物の価格・市場構築も不可能ではないだろう.
 時代は獣医師の新しい社会貢献を要求しているのではないだろうか.

 


† 連絡責任者: 萩原精一(北海道農業共済組合連合会家畜部)
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