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いのち見つめる・いのち育む獣医師の活躍と
「獣医学部」の設立を望む
金川弘司†(日本獣医師会副会長・北海道大学名誉教授) |
1.は じ め に |
2.獣医師と獣医師会の活躍 最近の出来事の中から,「動物のお医者さん」以外の獣医師の活躍分野の身近な例をあげると,平成12年(2000)に,家畜伝染病の中で最も伝播力の強いと言われる「口蹄疫」が98年振りにわが国で発生した折には,九州・宮崎県で3農家・10頭の患畜と26頭の疑似患畜牛が,北海道では,1農家2頭の患畜と700頭以上の疑似患畜牛を適正に処分することによって,その後の発生・拡大を防ぎ,6カ月後には,口蹄疫清浄国となった.また,平成13年(2001)に牛海綿状脳症(BSE)が発生し,現在まで11頭の発症をみており,300頭以上の疑似患畜が処分されている.その後,BSEについては,年間約8万頭の死亡牛を含めた全頭検査と特定危険部位の除去が完全に行われており,これらを含めると年間に約150万頭の牛が処理されているが,これらのすべてが獣医師である食肉検査員によって,世界一厳しい防疫体制のもとで,牛肉に対する安全・安心の確保に努めている.また,昨年12月に79年振りに発生した高病原性鳥インフルエンザについても,山口県の採卵鶏農家で約3万5千羽を処分,大分県では,愛玩鳥としてのチャボ13羽とアヒル1羽を処分し,さらに,京都府の採卵鶏農家では,生産者の初期対応の拙さもあって,20万羽以上を処分することになり,社会問題にまで発展したが,その後は適正な防疫体制がとられて,4月以降は,感染・発生は見られていない.日本獣医師会としては,不必要な処分を奨励しているわけではなく,家畜伝染病予防法に基づいて適正に対応しており,特に,チャボの陽性例の発生後は,学校における情操教育・生命尊重などの観点から,学校飼育動物の安易な処分を行わず,正しい健康及び衛生管理を基本とした「緊急提言」などの啓発を行ってきた.また,鳥インフルエンザ発生時には,白衣を着た「家保職員」(家畜保健衛生所の獣医師)として,テレビなどマスコミに再三登場し,獣医師の活躍振りが紹介されたが,鳥の処分の際に,一部には,まだ生きている鳥が袋の中でもがき苦しんでいる状態までもが,不注意に過剰に報道されたことは残念であった.いずれにしろ,一連の悪性伝染病の防圧では,獣医師の大活躍がみられた.これら獣医師と獣医師会の活躍振りが,もう少し広く一般国民に正しく理解されてもよいのではないかと考えさせられた. この他にも,家畜伝染病予防法に定められている人と動物の共通感染症には,牛疫,リフトバレー熱,アフリカ馬疫など26種の疾病があるにも関わらず,多くの悪性伝染病のわが国への侵入や発生が見られていない.これら人と動物の共通感染症や海外悪性伝染病と闘いながら,わが国の食品衛生・公衆衛生・環境衛生などを支えているのが獣医師集団であると言っても過言ではない.全国にある576カ所の保健所と109カ所の食肉衛生検査所には,合わせて4,800人の獣医師が勤務しており,各都道府県にある家畜保健衛生所178カ所には,2,500人の獣医師が,わが国の衛生面の向上に日夜地道な努力を行っている.以上を含めて,厚生労働省,農林水産省をはじめ各都道府県の担当課など全体では,約8,500人に及ぶ獣医師が公務員として勤務しており,日本獣医師会や各都道府県獣医師会と密接な連携を保っている.そして検疫体制の確立をはじめ検査体制など,輸入先あるいは生産者から消費者までの全過程にHACCP(衛生管理方式・Hazard Analysis and Critical Control Point,危害分析重要管理点)と言われるNASA(National Aeronautics and Space Administration,米国航空宇宙局)が宇宙飛行士に採用している厳しい検査体制を導入して,食品の完璧な安全・安心を確保している.このように食品衛生・公衆衛生面での安全性を共有でき,日本の伝統的な独特の食文化である刺身や寿司のような生の食品や魚介類を安心して食べることができる蔭には,全国約30,000人の獣医師の地道な大きな力がある.海外旅行をしても,わが国ほど自由に安心して生水・生物を食することのできる国はあまりない. |
3.獣医学教育の現状 これらの多岐にわたる獣医師の活躍分野を支えているのが,6年制の獣医学教育である.哺乳類・鳥類・魚類及び一部の昆虫類までも含む多様な動物種への対応と衛生から環境面までの広範囲な活動分野を背景に,昭和52年(1977)の獣医師法の一部改正により獣医師国家試験の受験資格が学部卒業から修士課程修了に引き上げられた.昭和53年度(1978)の入学者から学部と修士を合わせた6年の獣医学教育が実施され,その後,昭和58年(1983)に学校教育法が改正され昭和59年度(1984)の入学者から医・歯学部と同じ「6年制教育」に改められた.ただし,獣医学においては,北海道大学以外の国・公9大学では,「獣医学部」ではなしに,農学部内の一学科・獣医学科としての教育が行われているのが現状であり,講座数(研究室),教官数及び施設などのほとんどが25年以上も前の昭和50年代(1975)から改善されることなく,教育年限だけが4年制に加えて2年間の修士積み上げ方式に変わり,やがて昭和59年(1984)から6年制一貫教育へと,年限が延長(水増し)されただけである.さらに,人医界では,医師免許を取得した新人医師(研修医)に義務付けられている2年間の卒後臨床研修の新制度があるが,獣医界にはない.そのような卒後研修を補填する形で,日本獣医師会は,平成12年(2000)以来,獣医師生涯研修事業を展開して,卒後を含めて生涯にわたる自己学習・自己研鑽を支援して,各獣医師の専門知識・技術の高位平準化に努めている.現在,卒業後に獣医師の資格を取得するための国家試験科目は,基礎・応用・実証(臨床)及び関連科目の中から18科目と定められている.しかし,先に述べた獣医学科は8〜10講座(研究室)しかなく,教官数も25人前後と少なく,日本獣医師会が平成10年(1998)に行った6年制獣医師に関するアンケート調査では,獣医学教育の中でも特に臨床及び公衆衛生分野がきわめて不十分で,問題であると指摘された. 今年の4月1日から,国立大学は独立法人化され,各大学が6年間の中期計画案を立てているが,今まで論議されてきた獣医学科の2〜3校が統廃合をして,再編整備で独立した「獣医学部」を目指す案は見られず,ほとんどが自助努力での獣医学科の存続を計画していることは残念である.平成9年(1997)に(財)大学基準協会は「獣医学教育に関する基準」を提示し,その中では,農学部内の一学科である獣医学科ではなしに,少なくても欧米諸国並みの独立した「獣医学部」として,教官数72人以上(教授18人,助教授18人及び助手36人)の確保が必要とされている.それがただちに実現できない場合でも,当面18人の教授を含む54人程度の教官が必要とされている.欧米諸国の「獣医学部」で行われている獣医学教育では,100人以上の教官と,さらに100人程度のスタッフ(教育補助員)がいるのに比較して,わが国の国立大学獣医学科の平均は,教授が10人以下であり,総教官数が約25人で,スタッフはゼロである.また,わが国の大学設置基準で学生定員120人の場合,医学部では教官数が140人以上,歯学部では85人以上とされている. |
4.獣医学科から「獣医学部」へ 前述した多様な動物種を扱う獣医師の広範な活動分野に適合する教育を行うためには,各大学の獣医学科を「獣医学部」へ昇格させ,教官数と講座数(研究室)の増加を図らなければ,21世紀の国際化とグローバル化して行く世界の潮流から著しく立ち遅れるのではないかと危惧される.獣医系大学の教官はもちろんであるが,各大学及び他分野の教官や文部科学省をはじめ国民の一人ひとりが,このことに多くの関心を寄せて,一学科ではなしに独立した「獣医学部」設立運動が高まることを切望する.日本獣医師会が平成12年(2000)に,おもに獣医師以外の学識者の方々に依頼した「獣医学教育のあり方に関する懇談会」(いわゆる黒川委員会)では,その答申の中で,獣医学教育の充実について,獣医学関係者だけではなしに,大学教育組織を管理する立場にあるすべての関係者に,あるいは国民の理解と支持が必要であり,そのために社会において,獣医学教育が果たす重要な役割について十分に説明する必要があると述べている. 今までも,獣医学教育改善の動きは,第二次世界大戦後の新制国立大学に獣医学科が設置されて以来続いてきた.最近の例では,平成9年(1997)に(財)大学基準協会が新しい獣医学教育を行うための「獣医学教育に関する基準」を定め,この基準を達成するために,国公立大学獣医学協議会及び全国獣医学関係大学代表者協議会などが,春と秋の(社)日本獣医学会のたびごとに開催されて真剣な討議が行われてきた.そして,平成10年(1998)に,この基準達成に向けて最大限の努力をすることを決議した.しかし,これらの討議や決議は,残念なことに獣医学教育に携わっている教官に限られており,これらの問題が,農学部内や日本学術会議獣医学研究連絡会及び全国農学系学部長会議などで取り上げられ出したのは,平成12年(2000)になってからである.平成15年(2003)に文部科学省は「国立大学の獣医学教育の充実のための協議会」を立ち上げ,約1年間にわたり8回の協議を行ったが,総論的なことに終始して,明確かつ具体的な結論にはいたっていない.今年の4月には,農学系学部長会議の基本方針に沿った署名運動が行われ,800人以上の賛同者の署名と要望書が,日本獣医師会も含めた関係者から文部科学大臣に手交され,大臣に獣医学教育改善の必要性を認識させた.今回の署名者のほとんどが,獣医師及び獣医系大学教官に限られていたが,今後はもっと広く,多くの分野,国民に輪を広げて,このような要請活動を継続しなければならないだろう. 平成16年(2004)から国立大学が独立法人化された現在,各大学の獣医学科の再編整備なり,何らかの連携や自助努力で独立した「獣医学部」を目指すという前例のない大事業を達成するためには,獣医学科内だけではなしに,関連する畜産学を含めた農学全体ないし大学全体の中で,十分に論議され,さらに,国民的な世論の高まりと,理解・支援が必須であろう. |
5.お わ り に 充実した獣医学教育のもとで,豊かな農業・畜産が守られて,わが国の食糧自給率40%を欧米諸国並みに高めて(フランス132%,アメリカ125%,ドイツ96%及びイギリス74%),食の安全・安心が確保され,動物の命が輝いてこそ,人の命も尊いものになり,豊かな自然や野生動物が生息できる環境が守られてこそ,明るい21世紀への展望が開けよう.地球上に息づくすべての「いのち」と「環境」が獣医学と獣医師に関わる重要な責務であり,「動物のお医者さん」から「地球のお医者さん」に変身・進化を遂げる獣医師と獣医学教育への国民的な理解と支援を切望したい.この数年間にわたる獣医界の目覚しい活躍を,もっと広く一般国民にPRすることに合わせて,わが国の獣医学教育が欧米諸国や医・歯学教育と比較して,不十分であることも多くの国民に認識してもらい,グローバルな視点から21世紀に相応しい独立した「獣医学部」で,充実した獣医学教育が行われることの実現を強く訴えたい. |
† 連絡責任者: | 金川弘司(社団法人 日本獣医師会) 〒107-0062 港区南青山1-1-1 新青山ビル西館23階 TEL 03-3475-1601 FAX 03-3475-1604 |