馬耳東風

 
 

 衛星映画劇場で,オードリー・ヘップバーン,ウイリアム・ホールデン主演のアメリカ映画「パリで一緒に」を見ていたら,二人の会話に「バスチーユデイ」という言葉が何度か出てきた.字幕ではそれを「パリ祭」と訳していた.ご存知7月14日のフランス革命記念日のことである.しかし,「パリ祭」は日本だけの呼称で本場フランスでは絶対に通用しない.フランスでは単にカトールズ・ジュイエつまり7月14日と称しパリを始め全フランスで休日を祝い合うフランス最大の国祭日となっている.毎年シャンゼリゼの大通りでは大軍事パレードが行われることで世界的に有名だ.この日を英語では(アメリカ人は)バスチーユデイということをこの映画で初めて知った.確かにこの方がパリ祭よりは曰く因縁がはっきりしていてわかりやすい.なぜ日本ではフランス人にも通用しないパリ祭という言葉を使うのか.実はこの言葉はかつてルネ・クレール監督の映画「Quatorze Juillet(7月14日)」を「巴里祭」と訳したことに始まるらしい.これは映画の内容を端的に表現したなかなかいい訳だと思う.そして今や完全に日本人には親しまれた言葉となっている.もっともパリ以外の都市や農村でも似たような気分でお祝いをしているので,パリ以外の住民にとっては「パリ祭」とは何事だと文句も出よう.とにかく現実問題として「パリ祭」をそのままフランス語に訳してもフランスでは通用しないことにご注意願いたい.
 このような言葉が他にないか探してみた.そう簡単に見つかるものではないが,以前から気になる言葉がなくもない.ETの訳「受精卵移植」である.正確には胚移植と訳すべきであったと思うが,何故か受精卵移植がポピュラーになって,法律にまで採用されている.しかしETのEはEmbryoであって決してEggではない.これも日本語を横文字に訳したのでは誤解される可能性がある.
 もう一つ,自分の経験から似たようなものが固有名詞にあったことを思い出した.昔,ある出版社に頼まれて,欧州の文献の翻訳をしたことがある.その中で「舐め石」という言葉が出てきた.牛に舐めさせる特殊な石であるが舐めさせるには舐めさせるだけの理由があった.塩分とある種のミネラル補給のためである.しかし原文ではくどくどとその効用を述べているわけではない.単に「舐め石」である.いろいろ探したが,読者に一発でわかる適訳が見つからない.しようがない,最後の手段で某会社の商品名を借用した.もうおわかりのことと思う,そう「鉱塩」.無断で借用したが,もう時効だろう.それとも使用許可を願い出ていたら逆に宣伝料でもいただけただろうか.

(子)