論 説

人と動物の共通感染症

加地祥文(厚生労働省健康局結核感染症課感染症情報管理室長)

 1.は じ め に
 昨年は,重症急性呼吸器症候群(いわゆるSARS)が中国広東省を中心として,香港,台湾,ヴィエトナムなどアジア諸国,カナダ等に感染が拡大し,わが国にも感染した台湾人医師が旅行していたことから,医師の宿泊したホテルや立ち寄り先の地域では一種のパニック的な騒動に発展したところもある.
 一方,北米では,ニューヨークから始まったウエストナイル熱の拡大がとどまらず,西海岸まで拡がってきており,専門家の間では太平洋を渡ってわが国に侵入するのも時間の問題と考えられている.
 中国でも,ロシアでも,アメリカでも野生動物に人(特に子供)が咬まれて狂犬病を発症して死亡するケースも依然あとを絶たない.
 これら,動物から人に感染して人に重篤な危害を与える,あるいは死に至らしめる感染症の予防や蔓延防止については,わが国ではこれまで狂犬病の対策を除いて必ずしも十分とはいえない状況であった.幸いにもわが国は四囲を海に囲まれ,野生動物の移動が少なかったことが,これまで比較的に安閑としておられた要因であろうか.しかしながら,これまでそうだったからといって今後もないとは誰も保証できない.特に国際的な人と物の移動がますます拡大し,他方,エキゾチックアニマルをペットとして飼うことが一部マニアにブームとなっていたりするなど,これまでの状況とは比べものにならないほど,海外から感染症がわが国に侵入しやすくなってきているのも紛れもない事実であろう.
 明治30年(1897)以来,人の伝染病の予防・蔓延防止の根拠法であった「伝染病予防法」が平成10年(1998)に,およそ100年ぶりに抜本改正され,あらたに「感染症の予防及び感染症の患者に対する医療に関する法律(以下,感染症法)」となったとき,人の感染症対策の法律に,初めて「獣医師」の役割が条文化されたが,これは,人の感染症対策にとって,人と動物の共通感染症対策が如何に重要であるか,さらにいえば不可欠であるかということが認識された証左である.
 とはいえ,人の感染症対策に獣医学が重要な役目を果たしていることを十分に認識している獣医師や獣医科大学関係者や獣医学生が少ないことは誠に残念である.本稿では公衆衛生行政に携わっている獣医師だけでなく,開業獣医師の方々にも,また,獣医科大学の教員及びこれから獣医師になろうという獣医学生にも是非知っておいてもらいたいと思い,人の感染症予防分野での獣医師の役割や活動分野について紹介することとしたい.
 2.人獣共通感染症,動物由来感染症,人と動物の共通感染症
 わが国でも諸外国でも,古くからのもっとも有名かつ重要な動物と人の共通感染症は,狂犬病であったし,現在も変わらない.むしろ,最近の研究によって,狂犬病ウイルス類縁のリッサウイルスに感染したコウモリが人を咬むことで,狂犬病と変わらない重篤性を有していることも判明して来ている.
 現代社会を震撼させている感染症の大部分は,人と動物の共通感染症であると言っても過言ではない.エイズしかり,ヘンドラ,ニパしかり,インフルエンザしかり,エボラ,マールブルグしかり,ウエストナイル熱しかり,である.
 また,人の感染症と考えられているものであっても,過去には本来動物の感染症であったものが,人社会で感染環を形成したものもある.麻疹は犬のジステンパーに非常に近いウイルスであるし,人型結核も牛型結核が人に特異的に適応したものと考えられている.SARSの原因であるウイルスと非常に近縁なウイルスをハクビシンなどの動物が保有していることも判明してきた.
 従来こういった人と動物の共通感染症について,人と家畜が共通にもっている伝染病という意味で「人共通伝染病」といったり,家畜ばかりでなく,もっと広く動物一般に拡大して「人共通感染症」と言われてきた.いずれも英語ではZoonosisといわれていたものである.
 今日,厚生労働省では行政用語として,感染症のうちで動物から人に感染する感染様式をもつ感染症を,「動物由来感染症」と称して使用している.その理由は,人の健康危害を防止する観点で,動物から人への感染を遮断すること,言い換えれば動物での予防・蔓延対策が公衆衛生の対策として重要であるという考えに基づいて,これら人獣共通感染症を人だけの感染症と区別するためである.「動物由来」という表現は決して動物自体を悪者にしているわけではなく,対策上の対象を明確化しようという意図である(本稿では無用の誤解を避けるために「人と動物の共通感染症」という表現にしている.).したがって,厚生労働省が用いる「動物由来感染症」という用語は,「人と動物の共通感染症」と同義であり,動物の視点で見れば「人にも感染する動物の感染症」とも言えるものである.
 3.家畜衛生学,獣医伝染病学,獣医公衆衛生学
 私が学生だった時代には,感染症を研究教育対象としている教室として家畜衛生学講座,獣医伝染病学講座,獣医公衆衛生学講座の3つの研究教室があった.それぞれの教室の研究対象は微生物であったので,家畜衛生学と獣医伝染病学が家畜・家禽の感染症を,獣医公衆衛生学では食中毒原因菌を中心とした人と動物の共通感染症を対象にするというふうな棲み分けが行われていた.
 翻って公衆衛生行政実務の世界に入ってみると,公衆衛生獣医師の仕事の主力は,狂犬病予防,食品衛生,及びと畜検査であった.と畜検査の対象疾病は,家畜伝染病である,口蹄疫,炭疽,豚丹毒など,家畜の防疫対象でもあり,重なるところがあった.しかし,腸管出血性大腸菌O157のように,牛にとってはまったくの無害な菌ではあるが人に感染するや溶血性尿毒症症候群(HUS)を起こし,重篤化して死に至らしめる症例も少なくない動物由来の感染症も少なくない.最近でも食肉を介して人に感染するE型肝炎ウイルスのように,肥育中の豚が保有しているものも発見されてきた.
 獣医公衆衛生行政の分野がカバーしなければならない感染症の範囲は,家畜の伝染病から,家畜には無害であるが,人には危害を与える感染症へと拡大し,一方,食中毒という動物性食品による細菌性食中毒だけではなく,残留農薬,添加物残留動物用医薬品等の毒性学も対象となり,また,動物用医薬品の残留による耐性菌の出現も公衆衛生行政の課題の一つとなってきた.
 これに,新興・再興感染症として,人の感染症対策で注目されてきた感染症の過半が,人と動物の共通感染症ではないかとなれば,獣医公衆衛生学教室のカバーすべき対象はすべての獣医学領域に及ぶことに発展する.もちろん,と畜検査では従来から,生体検査という名称での「内科診断」があり,「病理検査」があり,「微生物検査」がり,「寄生虫学」もあったが,これからの人と動物の共通感染症では,一般のペットや野生動物の感染症も対象になるのはもちろん,野生動物での感染症のコントロールをしようとすれば,野生動物の生態学なども援用していかなければならないのである.
 ということは,現代の獣医公衆衛生行政分野では,獣医学領域全般を動員しての総力戦ともいえる様相を呈している.
 4.感染症法の位置づけ
 厚生労働省の重要な役割の一つは,人の健康危害を未然に防止し,健康の増進を図ることである.人の感染症の予防のために,動物での対策が必要であれば,人に感染するのを待ってはいられない.感染症を媒介するものが,食品であれば「食品衛生法」により,食肉であれば「と畜場法」により,また,食鳥であれば「食鳥処理の事業の規制及び食鳥検査に関する法律」で対策が講じられる.動物であれば「感染症法」である.
 今回,平成15年(2003)10月の感染症法の改正では,従来よりも一層の人と動物の共通感染症対策を強化するために,
獣医師の責務の明確化(感染症予防のための国,自治体の施策に協力する義務)
動物を診断した際に,保健所に届出していただく感染症の範囲の拡大
をした.
  さらに,海外から輸入されてくるさまざまな動物が,わが国にない感染症を持ち込むおそれがあることから,サル類に加えて,
わが国にない感染症を保有する可能性のある動物について,輸入禁止できる動物の範囲を拡大したこと
感染症保有リスクに応じて,ほ乳類,鳥類等は,[1]原則,輸入禁止か,[2]検疫(いわゆる係留検査)対象か,[3]健康検査をした証明書を添付して輸入の届出をするか,としたこと.危害の蓋然性の高い動物は,ただちに輸入禁止できるようにした.リスクが多少あるものの係留検査によってそのリスクを低減できるものに対しては輸出国と輸入時において厳重な検疫検査を実施することとしている.また,検疫検査をするまでには至らない動物であっても,輸出国の発行する健康証明書がないかぎり,輸入の届出は受理されない.
  なお,以前本誌で,前島一淑慶應義塾大学名誉教授が,「人を対象とする医学,薬学と獣医学の間には大きな違いがある.医学,薬学の第一の目的は人の健康増進」(日獣会誌56,541〜543)であると述べられているが,獣医学の中でも獣医公衆衛生行政という分野を担当する厚生労働省や地方自治体の公衆衛生部局にあっては,その第一の目的は「人の健康増進」であるということを追加させていただきたい.
 動物福祉という観点とは異なるので,決して前島教授の述べられたことの揚げ足をとったのではなく,あくまでも,人の健康増進を第一の目的として,獣医学の知識を生かし,獣医師の資格をもって公衆衛生行政に貢献する重要な分野があるのだということを臨床家にも,獣医学生にも知っておいてもらいたいという気持ちからである.
 5.いま行われている対策
 現在,厚生労働省及び自治体の公衆衛生部局でおこなっている,人と動物の共通感染症の対策について簡単にご紹介しよう.
 まずは,従来からの狂犬病対策について,引き続き,狂犬病の予防接種の推進,野良犬の捕獲などのほかに,最近の問題であるロシア船で来て,不法上陸するロシア犬の摘発,そしてこれと関連して,咬傷事故を起こした犬がいた場合の,診断検査法の講習会の実施などである.狂犬病の輸入規制としては,平成10年の感染症法の改正と同時に,狂犬病予防法を改正し,犬の検疫に加えて,新たに猫,アライグマ,キツネ,スカンクを検疫対象に加えた.また,コウモリについては,世界各地で人の狂犬病の感染源になっていること,また,ニパウイルスやリッサウイルスの自然宿主でもあることから,昨年11月から,感染症法により輸入禁止にしている.
 サル類は,エボラ出血熱,マールブルグ病の媒介動物として,原則として輸入禁止動物になっているが,特定の国の施設からのものについては,主として実験用動物として輸入が認められており,動物検疫所において検疫が行われたもののみが輸入されている.
 なお,輸入禁止地域産のサルであってもアイアイやオランウータンなどの動物園の動物については,個別に大臣が許可した場合は輸入できることになっているので,先般も,台湾政府,台北市立動物園とオランウータンの輸入条件について協議してきたところである.
 ほかには,ペストの媒介動物であるプレーリードッグ,ラッサ熱の自然宿主であるヤワゲネズミ(マストミス),SARSの媒介動物と考えられているハクビシン,タヌキ,イタチアナグマは,輸入禁止されている.
 昨年の感染症法改正での大きな改正は,新たに動物の輸入届出制度が盛り込まれたことである.この制度は,輸入禁止動物及び検疫動物以外のすべてのほ乳類と鳥類に適用されるもので,これらの動物を輸入する場合には,健康証明書を添付した届出書を厚生労働大臣に届出しないかぎり,輸入できないという制度である.
 一方,ウエストナイル熱のように野生の鳥類と蚊の間で感染環が成立していて,海外から野生の鳥か蚊によって侵入する可能性のある感染症では,国際空港での蚊のモニタリングと蚊の駆除,航空機内の蚊の駆除,カラスの多く集まる全国120カ所の公園での死亡カラスのモニター(カラスはウエストナイル熱に感受性が高く,体躯も大きめなので感染して死亡すると目に付きやすいため,感染のモニターに適している.)を行ってきている.また,媒介蚊対策として,国立感染症研究所の専門家らに「ウエストナイル熱媒介蚊対策ガイドライン」を作成していただいた.
 動物園等で動物から従業員や来園者にオウム病が感染したのではないかと考えられる事例が発生したことから,昨年,動物園水族館協会,大学,研究機関,自治体等と協同で「動物展示施設における人と動物の共通感染症対策ガイドライン」を作成している.
 最近,盲導犬,介助犬,聴導犬を対象とした「身体障害者補助犬法」が平成14年に施行され,飲食店やホテル,デパートといった施設に盲導犬などの同伴の受け入れが拡大している.より,このような施設への受け入れが円滑に行われるように,また,社会的にも認識されるよう,「身体障害者補助犬の衛生確保のための健康管理ガイドライン」を東京農工大学山根教授に班長となっていただき,策定している.
 6.お わ り に
 人と動物の共通感染症対策は,やっと本格的に始まったばかりで,やらなければならない分野がまだまだある.まずは,身近なペットからはじめて,次第にその範囲を拡げていきたい.野生動物における感染症のモニタリングなどは今後の大きな課題である.ウエストナイル熱や鳥インフルエンザのような野生の鳥が媒介する感染症なども視野に入れているが,やっとそれも始まったばかりだ.
 今後,種の保存の目的で,世界の動物園同士で動物の交換,貸し出し,譲渡などが活発化する様相を帯びている.動物園の動物であっても元は野生動物であるのでそういった野生の動物の感染症にも精通するだけでなく,移動,検疫などを行うに当たって動物の行動学,心理学にも注意を払わなければならない.
 公衆衛生行政分野では,まだまだ獣医師の専門性を必要とする分野が拡がっている.たとえば感染症が発生した場合の実地疫学調査に獣医師の持つ疫学や感染症に対する広い知見は不可欠である.新興感染症の感染源調査,研究にも野生動物における病原体保有調査が不可欠だ.ペットの感染実態を人の診断や予防に結びつけるための臨床獣医師からの疫学データはこれからもっともっと重要視されるだろう.
 こういう状況であるので,最後に,今後とも構成獣医師皆様の一層のご協力を心からお願いする.


† 連絡責任者: 加地祥文(厚生労働省健康局結核感染症課感染症情報室)
〒100-0013 千代田区霞が関1-2-2
TEL 03-5253-1111
FAX 03-3581-6251