解説・報告

わが国の近隣諸国における狂犬病事情

井上 智(国立感染症研究所獣医科学部第二室長)

 狂犬病はわたしたち人類が知っている最古の人と動物に共通の感染症(人獣共通感染症)であり,人も動物も発病する.現在,狂犬病は日本,英国,スカンジナビア半島など一部の国を除いて世界中で報告されており,狂犬病によって5万人以上の人と10万頭以上の動物が毎年死亡しているといわれている.世界保健機関(WHO)によると狂犬病で死亡した人の90%以上はアジアである.アジア以外ではアフリカで500人から5,000人,中南米で200〜400人,北アメリカで4〜8人,ヨーロッパで10〜20人の人が死亡している.
 通常,人は狂犬病ウイルスを発症している動物に咬まれて感染する.狂犬病は発症してしまうと人も犬も助かることなく100%死亡する感染症であるが,ウイルスに感染したと疑われる場合に迅速かつ正しく狂犬病ワクチンを接種することによって発症を未然に防ぐことが可能な病気でもある.世界中で毎年1,000万人以上に曝露後のワクチン接種が行なわれており,そのうち800万人近くはアジアである.主な国の接種者数は中国で500万人,インドで150万人,ベトナムで60万人,タイ国で20万人,スリランカで8万人,フィリピンとパキスタンで7万人,バングラデッシュで6万人,ネパールで2.5万人といわれている.
 年々,日本から海外への渡航者が増えている.年間1,700万人もの人が海外を訪れており,その渡航先の多くがアジアと北米で,それぞれ750万人と530万人である.アジア諸国では主として犬に狂犬病が流行しているが,国や地域によっては狂犬病の流行している動物種が異なる.北米ではアライグマ,スカンク,コヨーテ,コウモリ,ヨーロッパでは主としてキツネ,アフリカでは犬,ジャッカル,マングースに流行が見られ,中近東では犬,オオカミ,マングース,中南米では犬,コウモリで狂犬病が流行している.人が狂犬病に感染する危険性は渡航地の狂犬病流行動物と狂犬病が流行している動物と接触する機会が多く人の生活に近い動物(犬,猫など)で高くなる.海外に出かける際には渡航地の狂犬病事情をよく理解して,犬,猫等飼い主の明らかでないペットや野生動物に注意して気軽に接触しないことが大切である.渡航先で狂犬病が疑われる犬等に咬まれた場合にはできるだけ早く最寄りの医療機関で適切な処置を受けるべきである.また,狂犬病流行地域からの野生動物等の輸入,繁殖,移動などをむやみに行わないことはいうまでもない.

 日本はアジアに位置している.以下,最近話題となったアジアの狂犬病について紹介したい.
韓国は文化的にも歴史的にも私達に最も近い国である.韓国では1984年に狂犬病の制圧に1度成功したが,1993年に北の国境線(DMZ)近くでタヌキを原因とする狂犬病が報告されてから毎年DMZに沿った地域の犬と家畜で狂犬病が発生して流行域がしだいに拡大している.狂犬病を発症した野生のタヌキが狂犬病対策のとれないDMZから侵入することが狂犬病の発生を阻止できない理由として挙げられている.また,狂犬病を制圧してから犬のワクチン接種率が年々低下して最も低いときには14%であったことも狂犬病の再流行をまねいた大きな原因と考えられている.地域の犬の80%以上に狂犬病のワクチン接種が行われていればその地域に狂犬病を発症した動物が入り込んでも犬の間で狂犬病が伝播・拡大することが阻止できるとWHOは報告している.韓国ではおもに犬と牛で狂犬病の発生が見られているが1998年には2名の人が狂犬病で死亡している.その後も毎年1〜2名が狂犬病で死亡しており2003年にも2名が死亡している.人はいずれの場合も犬やタヌキが狂犬病であったとは知らずに曝露後のワクチン接種を受けなかったため死亡したということである.狂犬病が発生していても狂犬病に対する危機意識の啓発がなかなか困難であることが伺える.現在,狂犬病はDMZ沿いの全地域に拡大しており3年前からタヌキをターゲットにした組み換え経口ワクチンの散布が行なわれてその散布規模は年々拡大していると聞く.
中国では過去5年間にわたり狂犬病の発生が急増して,2003年度は9月末までに1,297名が死亡(63%近い急増)している(PROMEDニュースから).中国衛生省の報告によると2001年と2002年の死亡患者数はそれぞれ854名と1,003名で中国疾病対策予防センターの専門家はペット所有者の増加,市民の狂犬病に対する認識不足,飼い犬のワクチン接種率の低下,郊外や辺地での野犬の増加が患者数急増の主な原因と述べている.また,衛生省は今年前半に狂犬病で死亡した人の数はSARSやAIDSによる死亡者数をはるかに上回っており狂犬病は中国で現在最も恐しい致死性の感染症であると報告している.地域的にはこの夏に広東省,海南省,湖南省,江蘇省で狂犬病が発生して狂犬病流行拡大が危惧されている.特に,広西自治区では2003年1月から9月までに312名が死亡して2002年の年間死亡数の1.5倍をすでに超えている.現地の医療専門家は,住民の狂犬病に対する警戒心の低下と飼い犬の狂犬病ワクチン接種率の低さが狂犬病患者発生増加の原因と指摘している.ちなみに,広西自治区には現在約620万頭の犬がおりそのワクチン接種率は20%以下である.狂犬病の発生が確認された時点で迅速に適切な初期対応を行える体制の整備が重要であることはいうまでもないが,狂犬病流行の原因となる犬に対するワクチン接種と野犬対策等が十分行なわれないと短期間で狂犬病は流行が拡大してしまうことが分かる.
インドネシアでは1997年と2003年にフローレス(Flores)島とマルク(Maluku)諸島のアンボン(Ambon)島で輸入型狂犬病が報告されている(WHO報告より).いずれも,漁師もしくは船員が狂犬病流行地から犬を持ち帰った事が原因である.フローレス島では1997年まで狂犬病の発生が1度もなかった.島の東部に上陸した3頭の犬が狂犬病と診断されたのは上陸2カ月後に狂犬病の流行が確認されてからである.当初,狂犬病の流行を阻止するために50万頭の犬(犬総数の63%)が淘汰されたがこの方法はまったく効果がなく3年後(2000年)には全島に狂犬病の流行が拡大している.この間に81人の人が死亡しており2000年度の咬傷被害による曝露後のワクチン接種は7,000人以上となった.現在も海外から輸入したワクチンを利用して犬の狂犬病対策が行なわれているが狂犬病の発生は現在も続いている.同様に,狂犬病がなかったアンボン島での狂犬病発生はスラウェシ(Sulawesi)島から持ち込まれた一見健康そうな犬が狂犬病に感染していたことが原因であった.8月から10月の間に17人の人が狂犬病を発症して死亡し,このうち9人は14歳以下の子供であった.WHOの支援により犬の咬傷被害を受けた1,069人中565人が曝露後のワクチン接種を受けているが経済的理由によりワクチン接種を受けられない被害者がまだ多くいる.なお,発生1カ月の間に島内に住む34,330頭の動物(犬が32,500頭,これ以外は猫とサル)ほぼすべてについてワクチン接種が行なわれた.海は狂犬病の侵入を阻害できる大きな防壁であるが狂犬病に対する危機意識の低下による小さな油断が狂犬病の侵入と流行を引き起こしてしまうよい事例である.また,狂犬病が一度流行してしまうとその淘汰に莫大な費用と時間のかかることも理解できる.

 ここ数年,国内では起きないと考えられていた口蹄疫やBSEの発生,予期しなかった野兎病に感染した疑いのあるプレーリードックの輸入,摘発できなかったSARS感染者の入出国といった輸入感染症に関する事例が立続けに起きている.日本で起きていない感染症も偶発的にもしくはちょっとした油断で国内に侵入することが示されたわけである.狂犬病流行地から来る外国船からの不法上陸犬や船員による犬の遺棄,全国的な犬のワクチン接種率の低下に関する報道がなされているがこれらは国内における狂犬病対策の重要な課題である.また,私達は毎年約400万頭もの動物を輸入しており(このうち哺乳類が約3万頭を占めている)犬や猫以外にもフェレット,スカンク,キツネ等といったさまざまな野生動物が含まれている.動物の輸入については2001年から財務省により輸入統計が公開されている.これによってある程度正確な輸入動物の数が把握できる(詳しい数値等は,厚生省のホームページ:「動物由来感染症を知っていますか」から「もっと詳しく知りたい方へ(専門家の方へ)/統計資料」にアクセスして「わが国への動物の輸入状況について」に掲載).狂犬病対策の重要な課題は市民1人1人にまず狂犬病を知ってもらうことである.ペットを適切に飼うといった身近な所から始めて狂犬病を予防する方法について理解を深めてもらうことが重要である.ペットと飼い主に接する機会の多い臨床獣医師によって検診等の際にペットの健康管理と正しい飼い方の助言とともに狂犬病について正しい知識を普及していただけると危機意識の啓発にもつながり,とても効果的な狂犬病対策となる.
 日本では,犬に対する狂犬病ワクチンの接種義務,狂犬病の流行拡大の原因となっていた野犬の掃討と犬の検疫によって国内で流行していた犬の狂犬病を制圧することに成功した.しかしながら,お隣のアジア諸国では依然として犬の狂犬病が流行しており,またアジア以外のほとんどの国で狂犬病の脅威がいまだに続いていることを考えると日本国内での狂犬病に対する意識の啓発と万が一の時の対応策の準備がとても重要であることが十分理解できる.
 狂犬病は発症してしまうと人も犬も助かることなく100%死亡する病気であるがワクチンを適切に連続接種することで発症を未然に防ぐことが可能な病気でもある.日本では,1970年にネパールで感染して帰国後に狂犬病を発症して死亡した青年の1例を除くと1957年以降に狂犬病の発生はない.これは,現在も行われている国内の犬に対する狂犬病ワクチンの接種や輸入動物に対する検疫と放浪犬対策等の成果である.犬に狂犬病のワクチン接種を行うことで,偶発的に狂犬病が日本に侵入した場合に犬の狂犬病まん延を未然に防ぐことが可能になる.また,飼育犬へのワクチン接種は万が一に狂犬病の発生が疑われた時に予想されるワクチン未接種犬による咬傷被害者の狂犬病発症不安,咬傷犬に対する過激な忌避反応と不必要な人と犬へのワクチン接種パニックを予防する効果もあります.犬に毎年行う予防注射(4月〜6月)は私達が普段から参加できる簡単で重要な狂犬病予防対策の1つである.繰り返しになるがアジア以外にも世界中で犬と野生動物に狂犬病が流行している.海外に旅行をされる場合には,旅行先の狂犬病事情について正しい知識を得るとともに飼い主の明らかでない犬や狂犬病の発生報告がある野生動物との安易な接触をさけて狂犬病の感染を未然に防ぎたいものである.
 
〈参考情報(ホームページアドレス)〉
海外渡航者のための感染症情報:FORTH:
http://www.forth.go.jp/
わが国への動物の輸入状況について:
http://www.forth.go.jp/mhlw/animal/page_b/b03-7.html
動物由来感染症を知っていますか?:
http://www.forth.go.jp/mhlw/animal/index.html
人と動物の共通感染症研究会:
http://www.hdkkk.net/mokuji.html
狂犬病対応ガイドライン2001(PDFダウンロード):
http://www.forth.go.jp/mhlw/animal/page_b/b04-10.html
狂犬病:動物検疫所:
http://www.maff-aqs.go.jp/tokei/listb/kyouken.htm
狂犬病:日本獣医学会/動物の病気:
http://wwwsoc.nii.ac.jp/jsvs/05_byouki/infect/01-rabies.html
IDWR:狂犬病:
http://idsc.nih.go.jp/kansen/k00-g15/k00_06/k00_06.html
CDC RABIES:
http://www.cdc.gov/ncidod/dvrd/rabies/default.htm
WHO RABNET:
http://www.who.int/GlobalAtlas/home.asp


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