診療室

二十歳になった武蔵

宇野雄博(愛媛県獣医師会会員)

 人口およそ3万7千人の瀬戸内海沿いの街,川之江で小動物の診療所を開いている.川之江の地名は地場産業の「紙製品」や高校野球,ダイオキシンのボラなどでご存知の方もいらっしゃることと思う.地方でのんびりと始めた開業も,20年経ってくると次第に知り合いも増え,のんびりした毎日ばかりではなくなってきた.
 子犬,子猫から診はじめた動物たちも何時しか高齢になり,近頃は臨床経験・技術ともに今より遥かに未熟だった若い頃なら躊躇したに違いないような老犬・老猫の手術を引き受ける機会がどんどん増えてきている.もしかすると最後の別れになるかも知れない老いた動物の手術を決断することは,飼い主さんにとって大変なことであろう.待ち合いのモニターテレビで手術室の様子を見守っている飼い主さんの御家族の不安が麻酔係りをはじめスタッフ全員に伝わり,緊張感が走る.それでも,コトコトと小さな心臓が動き続け,無事に麻酔から醒めて動物と飼い主さんが対面する時は,スタッフ一同本当に充実感を感じるときである.
 今,当院の最高齢犬は20歳になったTさん一家の愛犬「武蔵」.小学生のお子さんと父親に連れられた真っ白い小さな子犬だった武蔵は,成犬になると飼い主以外の人を寄せつけず,予防接種に来院しても聴診はおろか触診もままならないほどに気性が荒い犬であった.それまで病気知らずだった武蔵が四年前の冬に急に痩せ始め,診察の結果特に悪いところは無く,食餌を改善して冬は寒くないように屋内に入れて曖房していただくようにしたところ,その後2回の冬を無事に乗り切ることができた.
 その武蔵もさすがに今年の2月には体温31.7℃となり,意識もなく冷たく固まった姿で運び込まれて来た.10日前から歩けなくなり,2日前からは水も飲んでいないとのこと.飼い主さんも寿命と一旦は諦めていたようだが,暖かい酸素室の中でスタッフの看護を受けるうちに,口まで運んでもらった食餌を食べられるまでになり,12日目に奇跡の退院となった.4カ月経った今では排泄時に立ち上がれるようになり,飼い主の手厚い介護で日一日と寿命を伸ばしている.武蔵ほど高齢ではないにしても,15〜6歳の犬の手術や入院の際には,立派に大学生や社会人に成長した見覚えのある子供達が都会から様子をみるために帰ってこられる.家族で見舞いに来られ,「よろしくお願いします.」と頭を下げられる時,責任の重さとともに,動物医療に携わっている喜びを感じる.
 犬や猫,そしてウサギまでも屋内で飼育することが当たり前になり,かつての愛玩動物達も益々家族の一員としての強い絆で結ばれ,伴侶動物と呼ばれるようになった今,獣医師やスタッフに寄せられる期待はそれに比例して大きくなって来ている.残念ながら,今の私も私の診療所も飼い主さんの要求のすべてに応える力はとてもない.これからも一つ一つ知識と経験を積み重ね,これまで同様さまざまな失敗の苦い思いを教訓として,倦まず休まず精進するより外ない.
 職場環境をなかなか改善することも出来ず,はたまたリーダーシップもない私と一緒に,朝から晩まで「こまねずみ」のように働いて私を引っ張ってくれるスタッフ達.狂犬病予防やフィラリア予防の忙しいシーズンには放られっぱなしのうえ,急患のたびに日曜の約束を破られても逞しく育っている? 我が家の子供達.それから,忘れてはならない我が妻に感謝しながら,今も酸素室に横たわるモニター画面の入院犬を横目にこの原稿を書いている.
 自称「野戦病院」の我が診療所も,これからは私の加齢に伴って次第に高齢動物の診療所と化して行くような予感がしている.若いころに夢見たスマートでクールな診療所とは少し違ってきているけれど,私にとっては益々居心地のいい診療所になりそうである.

宇野雄博  
―略 歴―

1977年

鳥取大学卒業
京都府京都市にて研修医,勤務医
1980年 鳥取県倉吉市にて勤務医
1982年 愛媛県川之江市にて宇野動物病院開業
 


† 連絡責任者: 宇野雄博(宇野動物病院)
〒799-0112 川之江市金生町山田井181-3
TEL 0896-58-7321 FAX 0896-58-2131