診療室

診療記「タヌキの交通事故」

平野 健(広島県獣医師会会員)

 H動物病院は,今年で設立以来29年目になる.1973年5月,府中町の自宅に6畳一間の小さな病院を併設し,10年間を過ごしてから,1984年南区の青崎に病院を移転した.それから18年間の歳月が流れている.3年前,4階建てのすばらしい病院が生まれた.現在,獣医師6名,AHT 8名,受付2名のスタッフが活躍してくれている.開業当初のことを考えれば,女房と二人から始めたのが嘘のようである.
 さて,14〜15年前より日々の出来事の中から,わが喜怒哀楽を診療記として書きとどめていた.ここのところ休筆中であったが,新しい病院で診療を始めてからは,職員との交換ノートを始めている.日々の気付いたことを遠慮なく描いてもらい,それに対して自分の思いを綴ってコミュニケーションを図っている.そのうちAHTの一人,Sさんとの交換ノートを,本人の了解を得て,診療記Vとして発刊した.また,このことがきっかけとなり,ふたたび診療記にも取組んでいる.
 先般,広島大学の市民公開講座の講師依頼を受けた.テーマである「暮らしの中の人と動物の関わり」の中で,犬,猫の講演を担当した.その際は,臨床医としての一面について診療記の何編かを元にテキストを作成した.講演終了後,多くの獣医師や看護士を目指す女子高校生から感動した旨の連絡をいただいた.そのときのテキストの最終章に掲載した「タヌキの交通事故」という診療記の一文を,わが心情として伝えたい.

  “日曜日の朝,瀕死のタヌキが動物病院に運び込まれた.I先生の適切な救急処置のお陰で,まずは一命をとりとめた.
 翌日,X線検査を行い,背柱が真二つに折れていることがわかった.無論,脊髄神経は完全に切れており,生涯半身不随はまぬかれない.野生には戻れないし,人の手助けがないと生きていけない.そのような安楽死も仕方ない状況である.その旨を連れて来たNさんに伝えた.Nさんは最初,動物園の方で世話をしてもらうことを考えていたが,自分で責任持って世話をすることを決意したようである.その熱意に心動かされたこともあり,“おたがいの立場で最善を尽くしましょう”ということになった.
 数日後,背柱をプレート(金属の板)で固定する手術を行った.無事手術後の経過は順調で,痛みが取れたのか食欲も出て,元気を回復した.タヌキは,Nさんが世話に自信がつくまで,病院で生活することになった.
 ところが,ある日突然タヌキは自分の右足のももの筋肉を齧りはじめた.信じがたい光景である.事故時,筋肉のダメージが相当大きく,徐々に組織が死んでいったのである.そのため,本能的に自ら体に不必要なところを切り離していたのだ.「今後は断脚手術が必要です.大きな手術をした後ですから体力的に心配です.これ以上処置することが,果たして幸せな方法かどうかわかりません.安楽死を考えた方がよいかもしれませんね.」と毎日看病に来てくれるNさんに伝えた.このことを聞いて悟ったのか,翌朝,このタヌキは死んでしまった.不思議な思いが残った.
 私の動物病院は広島の東部,旧2号線沿いにある.犬,猫の交通事故にはしばしば遭遇している.先日のタヌキの件からわずか1週間もしないうちに,病院前の道路上でタヌキがぼろ雑巾のようになって引かれているのを見つけ,I先生と一緒に片付けた.タヌキの交通事故に出合ったのは開業20年になるが,初めてのことである.動物病院によく来るハスキー犬の飼い主のMさんは,近くの向洋大原の海岸に以前から親子づれのタヌキが来ていたが,最近見なくなったといっていた.
 この辺も土地開発が進み,周辺の山々もどんどん切り崩され,ニュータウン作りが盛んである.その一方,静かに暮らしていた野生動物たちは住み家を追われ,食糧も手に入りづらくなったのか,人前に姿を現わすようになった.
 自然は人類だけのものではない.人は文明の名のもとに自分たちの生活権だけはしっかりと確保し,ユートピア作りに精を出している.万物の最高権威者として自負するのであれば,物言わぬ動植物のことを考える余裕が欲しい.長い年月をかけ作り上げた人類の業績をふり返ってみれば,知らず知らずのうちに地球環境のバランスを崩し,自らを住みづらくしているのではないだろうか.そのことを動物たちは身を持って示してくれているのである.今回のタヌキ,以前大きな窓ガラスに写っていた樹木に間違って突っ込んで大けがをしたハトも犠牲者である.しかし,本当に哀れなのは人類の方かもしれない.
 われわれは,犠牲となった彼らの姿を大いなる警鐘として受け止め,人類のエゴは程々にし,物言わぬ動植物のおかげで,生かされていることを痛感すべきではないだろうか.”

平野 健  
―略 歴―

1971年 帯広畜産大学獣医学科卒業
1973年 帯広畜産大学獣医学科大学院卒業
現 在 動物医学情報科学開発研究所研究員
趣 味:絵,ギター,ソフトボール,畑


† 連絡責任者: 平野 健(平野動物病院)
〒734-0053 広島市南区青崎2-8-29
TEL 082-282-4822
FAX 082-286-7705