紀行・見聞

ボルテ先生との出合いとルーマニアの夏の思い出

諸角元二(埼玉県 開業)

 今年もうだるような日が続く夏だった.そんな暑い日々のなかで,私は昨年ひょんなことから行った「ルーマニアの夏」をしばしば思い出していた.
 ルーマニア西部の地方都市,チミショアラの大学の獣医学部長であるボルテ先生と知り合ったのは,1991年にオランダのアイントフォーフェンで開催された国際放射線学会の席上だった.当時のルーマニアは1998年の革命(独裁者であったチャウシェスクが人民裁判で処刑された事件を人々はこう表現する.)まで,ヨーロッパ諸国の中でも鎖国状態であったため,ボルテ先生は英語がうまく喋れず,そのうえ知らない先生ばかりでホトホト困っておられた.その学会には,P. Suter,J.P. MorganやJ.K. Kealyなどの大御所もお元気で同席されていたが,私も帯広畜産大学の廣瀬先生(現・同大学名誉教授)に連れられて初めて参加した国際学会であったため,誰が誰やらわからない状態だった.そんなわけで,おたがい場違いなところへ来てしまったような私とボルテ先生,そして先生のお嬢さん(ビアンカ.当時,ドイツの医大生)と毎晩のごとく話をしていた.会話といっても中身は獣医学とは程遠く,身振り手振りでおたがいの国や暮らしのことを喋っているばかりで,わからなくなると最後は筆談になるというとんでもないものだった.
図1 教授室のボルテ先生
  その後,国際放射線学会は1994年にペンシルベニア,1997年にエルサレム,2000年に帯広と3年ごとに開催され,私はそのすべての学会に参加したが,2度とボルテ先生に会うことはできなかった.しかし,ボルテ先生からは何度も手紙を貰っており,2000年の冬に招待状をいただいたときには,「ここで行かなければ,ボルテ先生との関係も終わってしまう.」と勝手に思い込み,昨年の夏,意を決して家人を連れてルーマニアに行くことにした.
 さて,ルーマニアに行くことを決めたのはいいが,恥ずかしながらルーマニアがどこにあるのかも,どうやって行けばいいのかも知らなかった.旅行社にきいてみたところ,チミショアラ空港にはモスクア経由あるいはウィーン経由で行けるということで,私は迷わずウィーン経由を選択した.また,ルーマニアに入るにはビザが必要とのことであり,旅行社が都内のルーマニア大使館へ行きビザを取得してくれた.
 そして,ついに昨年の7月29日,ウィーンからチロリアン航空のプロペラ機でハンガリー上空を飛び越え,ルーマニアはチミショアラへ到着した.チミショアラ空港は一応国際空港にはなっているが,とんでもなく小さな空港であった.一緒に乗っていた人々はすぐに入国できたが,日本人がよほど珍しかったためか家人と私の荷物はすべて開けられ検閲されてしまった.それでもなんとか無事に入国できた私たちは,空港まで迎えにきてくれたボルテ先生の車に乗せられ,チミショアラの街中に入っていった.驚いたことに,先生の車が信号で止まるたびにどこからともなく小さな子供たちがでてきて,車の中に手を出してきた.そのたびに,ボルテ先生がルーマニア語でなにごとかを怒鳴り,子供たちはクモの子を散らすようにどこかへ行ってしまった.また,痩せこけた馬に引かせたオンボロ馬車がしばしばみられ,その荷台にも上半身裸の子供たちが乗っていた.ボルテ先生に聞いてみると,それらの子供たちはみな孤児ということであった.ボルテ先生は,「孤児たちにお金をめぐんでしまうと労働意欲がなくなってしまうから,お金をあげないようにしている.」といっていた.その後も行く先々で多くの孤児をみかけたが,なかには3歳から5歳くらいの裸足の子もいて,さすがに家人も私も胸が痛んだ.こんなところに,気のいい私の母を連れてきたら,それこそ全財産を撒き散らしてしまうことは確実だと思った.
 ボルテ先生の家は,たぶん高級住宅街なのだろう,家の周りは頑丈な塀で囲まれ,鉄製の門には家の中から電磁ロックがかかるようになっていた.家の中にも玄関や階段にアラームがついており,侵入者があればご近所中にわかるようになっている.さらに夜になると,シェパードと雑種の2頭の犬を庭に放す.この2頭の犬は結構フレンドリーだったが,隣の家はアルゼンチンなんとかドックという種類で,声をかけただけでも歯をむきだして威嚇してくる犬で,獣医師の私からみてもとても根性の悪そうな犬だった.これらの厳重な防犯装置や番犬たちは,この町に多く住んでいるジプシー対策ということであった.ジプシーというのは,最近では自らをロマニー語(ジプシーの言葉)で「人間」を意味するロマと呼称しているが,約1,000年前にインド(一説にはバングラデッシュ)からヨーロッパ各地に移住してきた民族であり,東欧にはかなり多くのジプシーが住んでいる.ボルテ先生の話では,一部のジプシーが勝手に他人の家に入り込んでくるため,これほどまでに警備を厳重にしなければならないということであった.
 また,先生の家には半地下の動物病院があり,ここで大学の助手をしているビアンカのお婿さん(ホラチュー)と一緒に小動物の診療をしている.共産圏時代の影響がまだ残っているためか,なんとチミショアラの獣医大学は午後2時に終わるので,3時から夜の9時まで家で診療ができるとのこと.私が行った夏休み中は朝9時から午後8時までが診療時間だった.ホラチューの大学での給料は50USドルくらいだそうで,それでは生活ができないので副業としてやっているそうだ.さすがにボルテ先生の給料がいくらかは聞けなかったが,ホラチューの給料の額で,先生が私たちにホテルを取ってくれなかった訳を理解した.なぜなら,チミショアラのホテルの値段は一泊100USドルぐらいということだから.
 ちなみに,診察室の広さは16畳ほどで,最低限必要な医療機器が並んでいた.これらの機器は人の病院の中古品だそうだが,日本ではもう探しても手に入らないような古いものだった.薬品類は私たちが使用するものと一緒だったが,手術機械の滅菌には今ではなつかしい乾熱滅菌器が使用されていた.そして,夕方になると先生の病院には結構患者さんが来ていた.
 さて,その夜はベランダで家族パーティをしていただき,私も家人も得意の身振り手振り会話で大いに盛り上がり,夜も更けてから先生の家の3階の部屋へ戻ったが,それからが大変だった.日中の屋根の熱気をはらんだ部屋の空気はメチャメチャ暑く,扇風機もクーラーもない部屋で,ただひたすらベッドに横たわり悶々としていた.さらに,夜中に外をジプシーが歩くのか,そのたびにそこら中の犬たちがワンワンと吠え,朝までまるで眠れなかった.
 翌朝は快晴で,朝からボルテ先生,奥様のマリア,家人と私の4人でチミショアラを南下してドナウ河畔へ泊りがけの小旅行に行った.しかし,日中の気温は日本の夏と同様35℃以上もあり,ボルテ先生自慢の中古車にはクーラーがなく,窓を全開にしていても外の熱気と前夜の寝不足で気持ちが悪くなってしまった.ボルテ先生もマリアも暑さに慣れているのか上機嫌で,ところどころで車を止め,乗馬用の馬場,馬の生産農場などを案内してくれた.そのたびに,家人と私はつかの間生き返るのであったが,ふたたび車に乗ると体温ほどもある車内の空気で半分死んでいたが,ボルテ先生もマリアも一生懸命案内してくれるので,死んだふりばかりもできなかった.ようやく夕方に到着地であるヘラクレネ温泉(ヘラクレスが入ったという温泉)に着いたときにはもうクタクタだった.ヘラクレネ温泉のホテルにもクーラーがなかったが,暑さに慣れてきたのか少しは心地良く感じられた.
 次の日(ルーマニアについて3日目)にはとうとうドナウ河畔に着いた.ありのままの自然がそこには残っていて,車窓の景色は驚くほどきれいだった.ドナウの対岸は旧ユーゴスラビアで,銃を持った国境警備隊がそこかしこで見張っていて,しょっちゅう車を止められた.共産圏時代には,ドナウ河の狭くなっているところで,ルーマニアから泳いでユーゴスラビアに渡った若者もいたそうだが,今では逆にユーゴスラビアから泳いでくる若者がいるそうだ.ルーマニアと旧ユーゴスラビア間に唯一架かっていたモラビタの橋は,何年か前にNATO軍に爆撃されたままになっていて,現在は行き来ができないということだった.また,大きな工場が廃虚になっている様子を目の当たりにすることもあり,現在のルーマニアの経済事情がチャウシェスク時代よりひどくなっていることを知った.このように,ドライブ中に見聞きしたことは,豊かで平和ボケした私たち日本人夫婦には驚くことが多かった.
 もっと驚いたことには,滞在3日目になると,私たち夫婦もこの36〜37℃でクーラーなしの生活に慣れてしまったのか平気になっていた.人間の身体がいかに順応力をもっているのかわかった.ふたたびボルテ先生の家に帰り,暑い部屋の中で恐怖の夜を迎えても,何も考えずにぐっすり寝ることができるようになっていた.
 4日目は,ボルテ先生,ビアンカとチミショアラの街を散策した.博物館ではビアンカからルーマニアの歴史を教えてもらった.ドライブ中にボルテ先生からも伺っていたが,ここでようやく整理できた.簡単に説明すると,紀元初期にドナウ河を越えてやってきたローマ帝国の人々にルーマニアは支配され,先住民族であったダチア人とローマ人の混血が現在のルーマニア人の先祖であること,その後この地はオスマントルコに支配され,次にドナウ河を下ってきたハプスブルグ家に支配され,最後は共産主義に支配されたということだ.チミショアラの市立病院の医師で,3カ国語に堪能なビアンカはヒストリー・オブ・オキュペーションといって笑っていた.
 5日目には,ようやくボルテ先生の大学に連れていってもらった.大学はもちろん大動物が中心だが,その設備は25年前に私が卒業した頃の帯広畜産大学と同程度であった.手術台は,ボルテ先生が設計して作らせたものだと自慢していたがちょっと華奢であり,その横の枠場(図2)もやや心もとないものだった.私は,これまで北米の立派な獣医学部をいくつか見学したことがあり,そのたびに彼我の差に驚いていたが,ここでは余裕を持って見学することができた.ボルテ先生は,優秀な若い教員はドイツなど経済的に豊かな国に行ってしまうため,いい教育者が育たないと嘆いていた.
図2 大学病院内の大動物用手術台と枠場
  その日の午後,ボルテ先生とマリアに空港に送ってもらい,4時発の飛行機でルーマニアをあとにした.空港への道すがら,ひょとしたらこの人たちとはもう2度と会えないのかもしれないと考えると,思わず目頭が熱くなり「ウルルン滞在記」でお別れのときに泣いてしまう芸能人の気持ちがよくわかった.
 さて,ふたたびウィーンの全日空ホテルに着くと,そこはクーラーのきいた別世界.ルーマニアに行く前にはなんとも思わなかったこの金ぴかの部屋は,まるで王様の部屋のように感じられた.家人も私も王様の部屋の椅子に座ったまましばし動けなくなり,夕食もとらず買ってきたビールと冷蔵庫の中のビールをすべて飲み干すと,泥のように寝てしまった.
 たった5日間の短い滞在だったが,その間に見聞きしたことはとにかく驚くことばかりで,私たち日本人の幸せなことをこれでもかと思い知らされた.たくさんの孤児やホームレスのようなジプシーを抱え,ライフラインも整備されず,労働賃金が低いため家族全員で働かなければ生活できない,紙幣の乱発によるインフレで貯金などとんでもない,それでも明るく生きているかの地の人々の生活をみてしまった私には,昨今の日本の「不景気」などという言葉が急に空々しく感じられるようになった.
 また,ボルテ先生の家族の様子,彼らを取り巻くルーマニアの人々の情の細やかさや暖かさに接していると,戦後日本が驚異的な復興を経て,質的に豊かになるのと同時に見失ってしまった大切なものが,ここにはまだたくさんあるような気がした.
 今年の夏も連日の猛暑が続いた.そんなとき,我が家では「ルーマニアじゃないんだから」というジョークが繰り返されていた.昨年の夏は,生涯忘れられない本当に暑い夏だった…ボルテ先生ありがとう.