診療室

生 体 の 神 秘

岸上義弘(大阪市 開業)

 「生体」,この言葉はなにげなく通り過ぎることができる反面,最近の科学の進歩を考慮すると,はたと足を止め覗き込みたくなるものでもある.人間を始めとした動物の身体は,いったい誰が創造したのか,と思いたくなるぐらいに精巧であり,かつ巧妙に動き,正確に反応し,必死に自己防衛し,懸命に自己修復する.単なる細胞の集合体ではなく,各細胞・各組織・各臓器が,おたがいに統制の取れた総合システムとして稼働している.
 もともと生体は,受精卵というたった一つの細胞から端を発している.それらの細胞は,まったく同じDNAを持っているにもかかわらず,形や機能がさまざまに異なったものになっていく.細胞が作り出すサイトカインや酵素やホルモン,その他の化学信号によって多様に分化し,細胞はいろんな組織・臓器を構築し,遠く離れた細胞同士もおたがいに連絡を取る.
 動物のこれらのシステムの巧妙さや正確さが保てなくなり,健康な生活が送れなくなったとき,われわれ科学者の出番となる.科学者は薬剤を使用したり,外科手術を実施したりして,生体の形態や機能を元に戻そうとする.もとより生体には自己修復能力が備わっており,一方,科学者も自分に生体を修復する能力があると思っている.ある病気が治ったのが,はたして薬剤や手術のお陰なのか,生体の能力のお陰なのか,またはそれらの相互作用なのか,なかなか判明しにくいところである.
 このことを整形外科の症例を例に出すと判りやすい.たとえば骨折を起こした症例で,骨折部の皮膚や筋肉を開創し,骨折部を露出すると,骨癒合力が低下することが判っている.空気に暴露し光線を当て,いろんな理学的化学的な侵襲を骨折部に加えることで,生体内の細胞やサイトカインの機能が阻害されるからである.
 考えてみると,従来から外科医は開創して骨折部を形だけ整復しようとしてきた.すると骨癒合力が低下し,仮骨も生成されず,骨折は治りにくくなる.だから外科医は必死で精密な整復をしなければならない.つまり外科医は医原的に生体の自己治癒能力を低下しておいて,そのせいで,より精密な整復手術を迫られるという,一種独特のジレンマに陥る.さらにまずいことに骨折部を支持するために金属のプレートを骨にあてがって,さらに骨癒合力を低下させる.仮骨を生成する立役者が骨膜細胞であるのに,プレートを装着するために骨膜隔離をしてしまい,骨膜細胞を阻害し,仮骨を生成しにくくしている.これだけ外科医に侵襲を受けても,強い自己修復能力を持つ生体なら,なんとかある程度の強度を持った骨癒合を達成する.しかし外科医から受ける侵襲が,生体の能力を上回った場合,強い骨癒合は果たせない.
 こういった科学的根拠もわからない時代は,ただやみくもに「骨折の治癒のために,解剖学的整復が必要だ.」といわれ,開創していた.そこで私はいいたい.「もしも開創すると,骨癒合能力が低下するので,よほど解剖学的に精密に整復しないと骨癒合できませんよ.」これら2つの意見は,同じように見えて,大きな違いがあることを判っていただけるだろうか.生体の自己治癒能力,われわれが想像もつかない細胞の持つ威力を温存し,せめてそれを妨害しないことが大事である.
 2002年,科学者は細胞の超微細構造と機能を次第に明らかにしつつある.近い将来,「細胞とは?」「生体とは?」「自己治癒能力とは?」という概念が刷新されるであろう.そして,それらの新事実を踏まえた上での,われわれ科学者の生体への態度,疾患への対処法が,もう一度問われる転換期が訪れるだろう.整形外科に限らず,癌の成因と治療法,ウイルスの対処法,自己免疫疾患,生体の寿命,遺伝病など,これらの概念の根本からの見直しが迫られるであろう.

 

岸上義弘
 
―略 歴―


1978年 麻布大学卒業
以後,UCディビス校,山根動物病院で研修
1982年 岸上獣医科病院にて臨床活動開始
1999年 京都大学再生医科学研究所に入室し,研究活動開始.現在に至る
趣 味: 妻とおいしいものを食べに行くこと.実験と研究.テニスとゴルフ