4 行政がサポートすべきこと
 
  前章で,動物由来感染症対策で臨床獣医師に求められる事項を示し,その実行のためにはまだ多くの課題が残されていることを述べたが,その課題を取り除いていく上で,行政側が以下のような点で支援できるのではないかと考えている.
(1)  動物由来感染症に関する情報提供
(2)  標準的な診断・検査方法の提供
(3)  危機管理プランの提供
(4)  疫学情報を収集する体制整備
(5)  臨床獣医師サイドで得た情報を集計するシステム・データベースの構築
(6)  医学との連携の橋渡し
 上記の各項目について,行政の今の取り組みと今後の検討事項を整理し以下に示した.
(1)  「動物由来感染症に関する情報提供」について
感染症法では「事前型対応」が重要事項として位置づけられている.感染症対策では実際に感染症が発生する前に国,自治体,医師等,国民の各自で必要な準備をしておくことが重要ということである.動物由来感染症に対する臨床獣医師の事前型対応を考えてみれば,自ら必要な知識を習得して業務に反映させ,飼い主へ正しい知識を普及啓発し,あわせて収集した疫学情報(健康危害情報)を発信していくことであろう.
 結核感染症課では動物由来感染症の情報提供体制を整備する中で,以下のように臨床獣医師への動物由来感染症の情報提供を行っている.
[1]  ホームページの開設
 昨年夏,結核感染症課のホームページ「動物由来感染症を知っていますか」を開設し,1)動物由来感染症に関する基本事項の解説,2)日本や世界の動物由来感染症のトピックス紹介,3)飼い主や一般の方が動物由来感染症に関して注意すべき事項の啓発,4)専門家向けの動物由来感染症に関する研究・法律・制度の概要・疾病情報の提供,等を行っている(注10).適宜更新し,情報発信の中核としたく考えている.臨床獣医師に知っていただく情報としてはまずは十分な内容と考えており,ぜひご覧いただきたい.
[2]  ハンドブックの作成
 動物由来感染症とその対策の概要を知ってもらうために,今年5月に「動物由来感染症ハンドブック」を作成した.この小さな冊子(A5判16ページ)に動物由来感染症についての知識を凝集させたつもりである.自治体,関係機関とともに日本獣医師会にも配布を予定している.臨床獣医師が飼い主への啓発にも使用できる内容と考えている.なお作成に際しては本章の(6)で紹介する「人と動物の共通感染症研究会」の協力をいただいた.
[3]  シンポジウムの開催等
(ア)  昨年秋,「狂犬病国際シンポジウム(副題:40年の空白の時を過ぎて世界の視点から)」を,米国(ハワイ州),豪州およびタイから専門家を招聘し,厚生科学研究事業の山田研究班(注11),北海道大学大学院獣医学研究科公衆衛生学教室 高島教授,近畿動物管理関係事業所協議会の協力を得て,東京,札幌および神戸の3カ所で開催した(注12).
 自治体や研究機関等の業務担当者とともに,多くの臨床獣医師にも参加いただき,わが国が狂犬病発生にどう備えるべきか,いかにして清浄国であり続けるか等の有意義な議論を行った.今後も機会を得て動物由来感染症のシンポジウムを企画し,情報提供の場としたい.
 なおこのシンポジウムにおいて,わが国と同様に狂犬病の非発生国であるが,犬にワクチン注射の義務付けを行っていないハワイ州と豪州の専門家から,わが国でのワクチンの必要性に関し次のような傾聴すべき発言があった.専門家は,両国と日本との動物管理の違いを指摘した上で,「非発生国であり続けるためには,その国独自の最善の方法がある.日本が過去40余年にわたり現在の方法で発生を防いできたのであれば,その方法が日本の対策の基本になると考えられる」と発言した.またハワイ州の専門家からは,狂犬病対策として,外国からの動物の侵入の可能性がある地域で,スポット的にサーベイランスを行っているとの紹介があった.これを参考に,本年度より厚生科学研究事業の山田研究班が,ロシア船の入港の多い北海道と富山県の4カ所の港湾地域で,地元自治体の協力を得て,狂犬病のスポット・サーベイランスの研究を開始している(注13).
(イ)  昨年12月に日本獣医師会が主催した一般公開シンポジウム「炭疽の正しい理解のために」について,結核感染症課もシンポジウムの企画立案段階で積極的に支援をさせていただいたところである.
(2)  標準的な診断・検査方法の提供
 最近話題になったペット動物関連の動物由来感染症に,パスツレラ症,Q熱,オウム病などがあり,結核感染症課にも問い合わせが寄せられている.
 いずれの疾病も動物の検査・診断方法が研究機関,検査機関ごとに異なっているのが現状である.このうちオウム病については,島根県での集団発生を受けて全国的な検査の必要性が生じ,急遽,国立感染症研究所リケッチア・クラミジア室で緊急作成した検査ガイドラインを,暫定版とし自治体,動物園水族館協会,日本獣医師会等に配布したところである(注14).
 個々の動物の診断を標準的手法に従って行うことは,動物の病原体保有状況の的確な把握に役立ち,得られた情報を人の健康対策に活用する上でも不可欠と考える.今後も各分野の協力を得て,適宜,検査方法等ガイドラインの作成を進めていきたい.
(3)  危機管理プランの提供
 発生がまれな動物由来感染症の対策として,疑わしい事例の対処方法を示した危機管理プランが求められている.これは,諸外国でも同様のようである.たとえば英国では,2000年4月に組織されたNational Zoonoses Group for England(注15)で,動物由来感染症に対応する際の重要事項として,関係機関の連携,医学と獣医学の協力,そしてこの危機管理プランの作成があげられている.そこでは狂犬病の危機管理プランとともに,ヘンドラウイルス感染症を題材に発生のない感染症への対応プランも検討されており,BSEでの経験が色濃く反映されているようである.また,米国においては狂犬病対策のための会議が毎年開催され要綱が改訂されている他(注16),唯一の狂犬病清浄州であるハワイ州においては,狂犬病発生に備えた危機管理プランが策定されている.
 昨年,結核感染症課は厚生科学研究で行われた「狂犬病発生に備えたマニュアル作成の研究」の結果を踏まえ(注17),「狂犬病対応ガイドライン2001」を策定し,自治体,関係機関,日本獣医師会,日本医師会等に配布した.臨床獣医師の方々にもご覧いただき,各自の対応,獣医師会としての組織的な対応を検討していただきたいと考えている(注18).
 狂犬病動物の的確な診断と対応は,臨床獣医師に求められる最も重要な動物由来感染症対策の一つである.今春,上記のガイドライン作成に参加した厚生科学研究班の有志諸兄が中心となって,タイ赤十字研究所(昨年の狂犬病国際シンポジウムに招聘した専門家が勤務)を訪問し,麻痺型の狂犬病に罹患した犬を観察した(注19).現地では過去に狂犬病予防ワクチン接種の履歴がある犬が麻痺型を発症しやすいといわれており,わが国の臨床獣医師が的確な診断を行う上で貴重な情報となると思う.今後は,このような得られた情報を臨床獣医師に提供することを検討したい.
(4)  疫学情報を収集する体制の整備
 感染症対策には疫学情報が必要なことはいうまでもなく,人の疫学情報(患者発生動向情報,病原微生物検出情報等)については,感染症法で指定された疾病の届出が医師に課せられている.しかし動物側の疫学情報については,家畜伝染病に指定されている一部の動物由来感染症(小動物ではレプトスピラ症),感染症法におけるサルのエボラ出血熱等,および狂犬病予防法における犬等の動物の届出が獣医師に課されているのみで,その他の疾病,動物については一切の届出の義務はない.しかし,疫学情報収集体制が整備されていない現在の状況では,やみくもに新たに報告だけを求めても,実際に機能することは望めない.
 そこで結核感染症課では,まずはその疫学情報を収集する体制を整備するところから対応を進めており,以下の(ア)自治体における事業,(イ)厚生科学研究事業を行っている.臨床獣医師の方にも必要に応じて適宜参画していただき,サーベイランス体制の整備を進めたいと考えている.
(ア)  自治体における動物由来感染症予防体制整備事業(注20)
 事業は都道府県等(都道府県と保健所を設置する市)が実施主体となって自治体における動物由来感染症の疫学調査体制の基盤整備を行うものであり,自治体が事業に必要とする予算の半分を国が補助する事業である.実施できる事業としては以下の3つのメニューがあり,自治体が必要に応じてそれぞれ選択して実施できることとなっている.
[1]  動物や人の病原体の保有状況に関する情報の収集・分析・提供および監視のための体制の確立
[2]  動物由来感染症発生時の緊急調査
[3]  動物由来感染症対策の研修と普及啓発
 特に臨床獣医師との関わりでは,たとえば[1]の動物由来感染症疫学調査の実施に際して,自治体からの依頼に基づき検体の採取に協力いただくこと等がある.結核感染症課から自治体に通知した要綱にも,「自治体は動物の検体の収集・検査等の実施において地域獣医師会等の協力を得て獣医師により行うこと」と明示させていただいている.
 なお,これまでに行われた事業の概要は以下のとおりである.(( )内は平13年度における対象疾病と対象動物の例).
 北海道(キタキツネ・犬等/エキノコックス症),東京都(齧歯類・は虫類等/クラミジア・サルモネラ等),千葉県(犬・猫/オウム病・Q熱等),神奈川県(鳥・犬等/オウム病・レプトスピラ症),富山県(ライム病等/ネズミ),兵庫県(狂犬病/犬等),大阪市(犬/ジアルジア等),東大阪市(犬/カンピロバクター等),山口県(犬等/サルモネラ等),福岡県(犬・牛等/サルモネラ等)
 このうち千葉県における試みを紹介すると,同県では県獣医師会の協力のもと,県下8地域でそれぞれ調査を担当する動物病院を指定し,犬・猫を対象とした検体採取を行いQ熱,猫引っ掻き病およびオウム病の抗体保有状況調査を実施している.ペット動物病院がサーベイランスのネットワークに参加して動物由来感染症の定点調査を行う新たな試みであり,他の自治体の参考になるところがあると思う.実際に疫学情報を得ることもさることながら,まずはこのような情報収集体制を整備していくことがこの整備事業の一番の目的である.自治体における新たな予算獲得の困難さは承知しているが,一層多くの自治体にこの事業へ参加いただき,関係獣医師会の協力をもって体制整備が進むことを期待するものである.
(イ)  厚生科学研究事業における「動物由来感染症サーベイランス研究」
 昨年より厚生科学研究事業で,動物由来感染症サーベイランスのあり方の検討が行われている(注11).おもな研究分野は,サーベイランス手法の検討と,動物情報と医療情報のインターフェイス化の検討であり,昨年は以下のような課題に取り組んでいる.今後,得られた検討結果を踏まえ,研究班で有用なサーベイランスモデルが構築されることを期待する.
[1]  動物公園における人の熱疾患の集団発生の疫学調査研究
[2]  クラミジアおよびリケッチアによる動物由来感染症の研究
[3]  ペットにおけるメチシリン耐性黄色ブドウ球菌に関する研究
[4]  健康な犬におけるMRSA定着に関する研究
[5]  レプトスピラ病の迅速診断法の確立とサーベイランスへの応用
[6]  Bウイルス感染の血清学的診断法の開発
[7]  多剤耐性サルモネラの人畜共通感染症に関する研究
[8]  狂犬病の監視体制に関する研究(港湾地区でのスポットサーベイランス)
[9]  狂犬病発生国での現地調査(狂犬病動物の観察,診断体制の調査等)
[10]  各国のペット動物の検疫等の比較
[11]  犬の登録推進のための方策に関する研究
  なお,厚生科学研究事業では他にも動物由来感染症に関連した研究が行われているが,そのうちエキノコックス症に関する研究では(注21),地域の獣医師会が研究班の疫学調査に協力しており,その取り組みを参考まで紹介させていただく.
 エキノコックス症については犬もキタキツネと同様に媒介動物となることが知られており,北海道ではこれまでも放し飼いの犬から虫卵が検出されている.キツネと異なって人と触れあうことの多い飼い犬がエキノコックスに罹患した場合,人に健康危害を与えるおそれが高いことが予想される.そこで,研究班では小動物獣医師会の協力を得て,昨年9月から本年9月まで北海道において飼い犬の糞便検体を収集し,開発された糞便抗原検査法を用いて検査し,あわせて飼育状態等の情報も収集している.獣医師会の協力で疫学調査が進んでいる例であり,今後,研究班が得た情報をもとに必要な対応を行っていきたい.
(5)  臨床獣医師が得た情報を集積するシステムの構築
 これは将来的な話だが,検査方法の標準化,民間検査機関での動物検体の検査体制の整備が進めば,全国に定点となる病院を選んで特定疾病の調査を行うようなシステムや,得られたデータを集積するシステムなども検討できよう.
 いただいている情報の中には,実際に製薬企業と全国の小動物病院が連携を図り,動物由来感染症対策のネットワークを作っている試みもみられた.現在,行政としては研究事業で新しいサーベイランス体制を検討しているが,行政側が想像している以上に,臨床現場での動物由来感染症対策の検討は進んでいるのかもしれない.
(6)  医学との連携の橋渡しの役割
 昨年10月に「人と動物の共通感染症研究会」が発足した.この研究会の目的は「動物由来感染症に関する学術研究の推進並びにその成果の普及を図り,動物由来感染症の発生の予防及びそのまん延の防止に寄与すること」となっている.そして,この目的達成のためには,獣医学と医学の連携が必要であることを強調している.
 厚生労働省結核感染症課に所属するわれわれも,感染症対策に係わる日々の業務の中で医学との連携の重要性を実感している.動物由来感染症は同じ公衆衛生分野の食品衛生と同様に,関係する職業領域や機関が多岐にわたり,その協力した対応が求められる分野である.われわれもこの職域を越えた連携協力を進めたいと考えており,研究会の活動によってこの流れが一層進むことを期待し応援している.
 この研究会の活動はホームページによって会員以外にも広く紹介されているので,ぜひ閲覧していただきたい(注22).

 5 お わ り に
 
  他国の動物由来感染症対策を知るために,英国政府発行の動物由来感染症報告書(注23)を読んで気づくことがある.動物由来感染症の患者発生数がわが国よりかなり多いことである.たとえばオウム病の1999年の患者発生数は207名で,わが国の患者数の10倍である.英国の人口が日本の半分であることを考慮すると20倍の差になってしまう.オウム病だけではなく,他の動物由来感染症についても同様である.単純にわが国と比較できないことは承知しているが,その数字からわが国の潜在的な動物由来感染症患者の数を連想してしまう.
 動物由来感染症対策の必要性を訴えてその拡充を図るためには,人の健康危害の現状を正確に把握することと同時に,動物の病原体保有状況の把握から始めるアプローチも重要であると考えている.今後,臨床獣医師の協力を得て,わが国でもよりよい動物サーベイランスが行われることを期待して止まない.
 臨床獣医師の方々への情報発信の機会を与えてくださった日本獣医師会に感謝して本稿を終えたい.

 


注10 厚生労働省結核感染症課ホームページ「動物由来感染症を知っていますか」
http://www.forth.go.jp/mhlw/animal/index.html
注11 厚生科学研究事業「動物由来感染症対策としてサーベイランスシステムの開発に関する研究」研究班長:国立感染症研究所 山田獣医科学部長
注12 狂犬病国際シンポジウム,2001年11月10日〜16日
http://www.hdkkk.net/topics/rabi0201.html
注13 厚生科学研究事業「動物由来感染症対策としてサーベイランスシステムの開発に関する研究」中の「狂犬病のサーベイランス体制に関する研究(我が国におけるスポット的サーベイランスの検討)主任研究者:国立感染症研究所獣医科学部 井上 智」
注14 厚生労働省結核感染症課事務連絡「小鳥のオウム病の検査方法等ガイドライン(暫定版)について」平成14年1月22日付
注15 National Zoonoses Group for England
http://www.defra.gov.uk/animalh/diseases/nzge/
注16 Compendium of Animal Rabies Prevention and Control
http://www.cdc.gov/ncidod/dvrd/rabies/Professional/
publications/compendium/comp_02.htm
注17 厚生科学研究事業「狂犬病発生時の行政機関等の対応マニュアル作成に関する研究」研究班長:岐阜大学教授 源 宣之
注18 「狂犬病ガイドライン2001」(市販版,出版社インフラックスコム)
注19 厚生科学研究事業「動物由来感染症対策としてサーベイランスシステムの開発に関する研究」中の「狂犬病のサーベイランス体制に関する研究(狂犬病流行国タイの現状と課題)主任研究者:国立感染症研究所獣医科学部 井上 智」
注20 厚生労働省健康局長通知「動物由来感染症予防体制整備事業について」
平成14年4月15日付 健発第0415001号
注21 厚生科学研究事業「エキノコックス症の監視・防御に関する研究」研究班長:北海道大学教授 神谷正男
注22 人と動物の共通感染症研究会ホームページ
http://www.hdkkk.net/mokuji.html
注23 Zoonoses Report/United Kingdom 1999
http://www.defra.gov.uk/animalh/diseases/
zoonoses/zoonoses_reports/zoonoses1999.pdf