かつて農業従事者の地位の向上,生活水準の農工間格差の是正を目的とした「農業基本法」が廃止され,新たに農業の持続的発展等を通じ食料の安定供給の確保,多面的機能の発揮を目的とする「食料・農業・農村基本法」が制定されたことを受け,基本法の理念や施策を具体化するものとして,平成12年4月に「食料・農業・農村基本計画」が公表されたが,畜産については,「酪農及び肉用牛生産の近代化基本方針」および「家畜改良増殖目標」の見直しが,また,新たに「飼料増産推進計画」が定められる等畜産振興に係る各種指針が同じく4月に公表された.
これら一連の流れを受けて,獣医療需要に対応し,その的確な提供体制の整備を行うに当たっての基本方向を示すものとして位置づけられる「獣医療整備基本方針」についても見直しが行われ,獣医事審議会の議を経て昨年12月,平成22年度を目標とする「基本方針」が公表された.
その内容をみると,前回平成4年に公表された12年度目標の「基本方針」において規定された事項を踏襲している部分が多く前回の規定ぶりと大きな差はないように感じられる.これまでの10年に引き続き継続的に整備が必要な分野があって当然ではあるが,今後10年間を見通した獣医療各分野の需要の動向をどのように捉えられたのか,計画達成のための新規施策をどのように位置づけられたのかという点が気にかかった.
前回の「基本方針」が制定された平成4年当時の獣医療を巡る事情としては,畜産業の農業での基幹部門への成長,一般家庭における小動物の飼育の普及に伴う的確な診療提供の重要性が増大する中で,(1)X線装置等の新たな診療機器の普及等による獣医療技術の高度化の進展,(2)慢性疾病や複合感染に代表される家畜疾病の複雑化・多様化,(3)産業動物開業獣医師の高齢化の進展による獣医師確保困難地域の発生,(4)安全な畜産物生産のための動物用医薬品の適正使用の必要性があるとされた.
しかしながら,その後10年が経過し,この間における獣医療を取り巻く情勢は,家畜防疫面において,92年振りの口蹄疫の突発,また今回の牛海綿状脳症の摘発に代表され,このための水際検疫をはじめとする防疫体制および食肉等の畜産物の衛生確保体制の点検・整備の一層の必要性は論を待たないが,社会環境,産業構造,国民生活の変化に対応し,獣医療は畜産という限定した産業分野に止まらず多くの分野において深く関わりつつあるとの観が強く,この傾向は継続すると考える.すなわち,獣医療は,「安全」,「安心と安定」,そして,「ゆとりと潤い」これらの社会的需要のすべてに対応し得る特質を有すると考える.
昭和58年に学校教育法の一部が改正され,平成2年3月卒業者から獣医学教育6年一貫体制下での最初の獣医界への就業者が輩出されることとなったが,この平成2年から直近の12年までの10年間の動物飼育状況および獣医師の就業状況を概観すると,牛,豚,鶏等の産業動物の飼養頭羽数が停滞ないし減少し(表1),イヌ,ネコに代表される小動物の飼育頭数が大きく増加する(表2)中で,獣医師の就業状況に大きな変化がみられた.すなわち,(1)獣医大学新規卒業者が10年前に比べ1割程度増加.内訳は,公務員が2割減,農協・共済が6割減.これに対し,愛玩動物個人診療が6割近くも大幅に増加.ここ5年でみても毎年400人を超える者が小動物診療分野に就業し,就業者全体の4割にも上っている(表5).(2)職域別の就業届出をみると,獣医事従事者が全体で1割弱増加する中で公務員がほぼ横ばい,農協・共済が1割から4割と大幅に減少.これに対し,小動物個人診療施設への就業者が5割増加し全体就業シェアーの3割と公務員とほぼ同レベルに到達(表4).これに伴い小動物の診療施設数は平成12年全国で8,143カ所.総数の6割強を占めるにいたっている(表3).このような傾向は,女性の社会進出の要素と無縁なものではなく,固定化しつつあるのではないかと感じられる.
小動物飼育の増加は,単に動物愛護思想の普及・定着ということのみで説明できることではない.環境重視の循環型社会の構築,人と動物の生活の調和・共生が志向され,国民生活における動物に対する評価・価値観の高まりにより,動物の社会参加が自然体で受け入れられてきていることによるものである.動物と人との関係が,食料生産基盤を支える畜産業を介しての産業的ウエイトのみならず,生活者の視点,教育的視点,セラピーとの視点で農業者も含め,広く国民全体が関わる「いわゆる家庭動物」としてのウエイトへの重みを増し,これに伴う動物関連産業の定着・拡大と相まって,必然的に,小動物の健康管理,保健衛生指導を担う小動物医療の活動範囲と需要が高まりを見せたことの証左と考える.
小動物獣医療を取り巻くいわゆる動物関連産業は2兆円にも届く産業規模を有するとされ,大きな雇用の場を提供し,この意味で(1)産業振興への寄与とともに,(2)国民生活の潤い,健康志向への寄与を担う訳であるが,両者の効果を最大限発揮させる役割を果たす専門技術と知識,さらには国民生活の安心,ゆとりと潤いを提供する分野としての小動物医療の果たす役割は重大でかつ責任も重い.畜産業とともに動物関連産業についてもその振興と健全な発展を促すことは,(1)重要な食料源である畜産物の安定供給,(2)食の安全の確保と並び獣医療整備の核とすべき課題となると考える.
「獣医療基本方針」は,農林水産政策の展開の枠組みの中で制定されるものであるとの制約があるのは必然であるが,産業動物,小動物そして公衆衛生獣医療という幅広い分野にその効果を及ぼす事業分野のトータルの健全な発展と将来展望を計画的に整備するとする計画制度本来の目的達成のため,(1)今後見込まれる獣医療各分野に対する需要の動向を踏まえ,関係省庁間および関係機関の連携の強化を含め,平成22年度を待つことなく,(2)必要な制度の整備や新規施策の検討と,その実現に向けてのプロセスの議論を開始し,「基本計画」に反映して頂きたい.このための検討の素材として,次の3点を提案したい.
1. |
産業動物医療分野については,食の安全・安心の確保を念頭に,産業動物医療を介しての生産農場段階におけるHACCP農場の認証および有機畜産物生産の認証システムの導入 |
2. |
小動物分野については,小動物医療の健全な発展を念頭に, |
|
(1) |
小動物医療分野を目指す毎年400人を超える新規獣医師に対し「獣医師法」が求める卒後臨床研修の受け入れ施設と研修運営体制の整備 |
(2) |
独立行政法人を含め国・地方の検査研究機関や家畜保健衛生所における小動物医療に関する病性鑑定等の検査調査業務,研修および獣医療産業基盤整備や動物福祉,動物との共生等に係る調査研究の取り組みの推進 |
(3) |
小動物医療を支え獣医療提供のスタッフとしてすでに定着した観のあるいわゆる動物看護士の獣医療における位置付けの明確化とその健全育成 |
|
3. |
獣医公衆衛生分野については,狂犬病,牛海綿状脳症に代表される動物と人との共通感染症の防疫・衛生対策,調査研究等の連携体制の整備・強化を念頭に,国,地方,それぞれのレベルにおける関係する行政および試験研究・学術機関と獣医師団体等による省庁横断による常設協議機関の設置 |
|