論 説
エイズ薬害事件と獣医学
![]() いま,このように進歩した現代医療の中で,なぜこのように悲惨な医療事故が引き起こされたのか,医学に密接な関係を持つ一獣医学研究者としてこの事件を振り返るとき,改めて学問の壁あるいは縦割り行政の弊害という日本の社会における抜き難い暗い思いがするのである. 獣医学には,馬の難病として馬伝染性貧血(以下伝貧と略)なる疾病が存在する.その病原ウイルスは,奇しくもヒト免疫不全ウイルス(HIV)と同じくレトロウイルス科,レンチウイルス属に分類され,レンチウイルス属の中のHIVとはきわめて性状の類似した近縁なウイルスである. 日本における馬の伝貧は,明治末期から大正,昭和にかけて広く蔓延し,昭和26年〜29年の4年間には毎年8,000頭を越す馬が殺処分され,大きな被害をもたらしたのである.エイズ薬害訴訟に関連するものとして指摘される獣医学上の大きな事件は,日本がまだ戦時下にあった昭和16年(1941),馬の腺疫(レンサ球菌による上部気道感染症)免疫血清を軍馬に注射したところ,数十頭の馬が伝貧に感染し,大半は斃死する事件が発生したのである. 三浦四郎博士は「伝貧回想」(農林水産省家畜衛生試験場馬伝染性貧血研究部記念誌刊行会編)の中で,「伝貧ウイルス対策は,各国の血清製造業者にとって解決を迫られている課題であった」と述べている. この事件に衝撃を受けた北里研究所の葛西勝彌,三浦四郎,上田貞善の三氏は「上述のごとき血清禍を完全に防止するためには,勢い免疫血清中に含有せらるる危険性ある伝貧病毒を血清の免疫価を減損することなく不活化するより他に途はない」として研究を開始した.その研究成果 の第1報は「医学と生物学」第4巻(1),19- 21,昭和18年(1943)に「免疫血清中に含有せらるゝ伝染性貧血病毒の不活性化に就いて」と題して発表された.その冒頭に述べられた一節と末尾には次のごとく記されている. 「伝染性貧血患馬から採取した馬匹用免疫血清中に活性伝貧病毒が含有されてあって,かゝる血清を応用することにより被注射馬間に伝貧の爆発を招き,不測の損害を蒙った事例は,従来世界各国の等しく経験するところである.」また末尾には「なお参考のため附記するが,伝貧病毒は人にも感染しうることから,苟も馬を使って免疫血清を作る場合,その血清は馬匹用ならば勿論であるが,たとえ人体用であっても,その中に含有せらるゝ可能性の多分に存するこの伝貧病毒に対し,絶えず多大なる関心を以てこれが不活性化に力むべきである」と. 葛西,三浦,上田ら三氏によって追求された伝貧病毒不活性化法は,伝貧馬血清に防腐剤として0.5%に石炭酸を添加し,37℃に7日間納置するという簡単な方法であり,これによって伝貧病毒は不活性化され,当該血清を馬に接種してもなんらの伝貧症状を示さず,また破傷風免疫血清,ワイル免疫血清,腺疫免疫血清および馬流産菌免疫血清を用いた実験においても,その免疫価を少しも減損しなかったと報告している.伝貧病毒は,0.5%石炭酸存在下,室温あるいは氷室保存において長期間抵抗することが明らかにされており,この伝貧病毒不活性化の要因は,37℃に加熱したことにあることが結論されている.(陸軍獣医団報,第417号,第418号, 昭和19年) 以上の成績を通覧するに,獣医学では伝貧という馬の重要な疾病を通して,免疫血清中に迷入するウイルスによって引き起こされる重大な感染を,エイズ薬害事件の半世紀近くも前に経験していたのである.この貴重な教訓を生かすことができず,人医学上で同じ過ちを冒してしまったということは,ただ「返す返すも残念」の一語につきる思いがするのである. 一方,その原因が奈辺にあるかを考えるとき,獣医学を農学分野に含めてきたこれまでの学問体系を改めるべきであることに思い至る.すなわち従来の獣医学は,軍馬や産業動物を主たる対象としてきたのに対し,現在の獣医学の態様はコンパニオンアニマル・人の伴侶として生活の中に深く介在する動物の生命を取り扱う学問として認められつつあり,この獣医学を人医学と基礎を同じくする学問体系の中に含めて取り扱っていたならば,このような貴重な情報を見逃すことなく医学分野においても有効に活用され,今回のエイズ薬害事件のような悲劇は避けられたのではないかと,その貴重な情報の欠落を残念に思うのである. 獣医学は農学でもなく,畜産学でもない.これまで得てして農学分野に限定されて考えられてきた獣医学の名称を,このような見解をもとに改めて見直すべきではないかと考えるが如何であろうか.獣医学の名称は明治時代から広く用いられてきた歴史ある名称であり,「獣(けだもの)」という字が用いられてはいるが,その本質は人以外の動物の生命を扱う医学である. 21世紀を迎えようとしている今日,コンパニオンアニマル・人間の伴侶動物としてその存在価値を認められている動物に対して,いまなお「けだもの」という字を用いることは,心理的にも,社会的にも,大きな問題ではあるまいか.そういう意味でも「獣医学」をもっと適当な呼称に変える試みが必要ではないかと考えるが如何なものであろうか.大方のご意見をいただきたいと思うのである. このように獣医学を医学の体系の中に組入れ,zoonosis(人・動物共通感染症)の態様を,医学分野においても獣医学分野においても確実に把握することにより,新しく制定された感染症予防法の中の再興・新興感染症に対応することが急務ではないかと考える. 獣医学上での苦い経験を有しながら,エイズ薬害事件を防止できなかったという重大な医学上の問題を解決するために,従来,農水省を中心として産業動物に主体を置いてきた獣医学の学問体系を見直し,獣医学は広く人・動物の生命を対象とする「動物医学」,「比較医学」の学問であることを踏まえた上で,その学問体系,また法的にも社会的にも,その位 置付けを再構築すべきであることを強調したい. |