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孫氏の兵法の軍争篇に次のようにある.「故に諸侯 の謀はかりごとを知らざる者は,予め交わること能わず.山林,険阻,沮沢の形を知らざる者は軍を行ること能わず.(中略)故に兵は詐を以て立ち,利を以て動き,分合を以て変を為すなり.故に其の疾きこと風の如く.其の徐かなること林の如く,侵掠りやくすること火の如く.動かざること山の如く,知り難きこと陰の如く,動くこと雷霆の如し.(中略)迂直ちよくの計を先に知る者は勝つ.これ軍争の法なり.」これを現代風にいうと,諸国の政治的意図や行動を察知しなければ外交交渉は成功せず,山川,森林,沼沢など地形を知らなければ軍を進めることはできない.作戦の基本は敵をあざむくことにあり,変幻自在に戦わねばならない.疾風の如く行動するかと思えば林の如く静まりかえり,烈火の如き勢で襲いかかると思えば泰山の如く微動だにしない.暗闇に姿をひそめたようにこっそり動くと思えば万雷のように襲う.迂直つまり計略を先に用いた方が勝つという意味だとのこと. では信玄公はどうして孫氏の兵法を知っていたのだろう.孫氏は二千数百年前中国の孫武により書かれ,孫氏一族に代々伝えられた兵法書といわれる.これをその昔遣唐使吉備真備が持ち帰って我が国に伝えられ,坂上田村麻呂は蝦夷平定に実用した.当時朝廷で兵事を司る大江氏一族により保管され重要な兵法書となった.十一世紀頃軍学者大江匡房はこれを八幡太郎源義家に伝授し実用され,義家は弟の新羅三郎義光に伝えた.後に義光は甲州の国守となりその地で武田氏と姓を変えた.義光が始祖といわれる武田源氏の家伝「甲州流軍学」の原典となったのがこの孫氏の兵法であり,以来武田家に代々引き継がれ,信玄公のとき開花したのだといわれている. 戦国時代信玄公は,作戦の要領をこの風林火山に集約し,赤い鎧の甲州軍団は近隣諸国から恐れられていた.孫氏の兵法を読むと現代でも役に立つことが多い.(寅) |