【読者の声】

軍用動物の思い出

木村光生(兵庫県獣医師会)
ま え が き
  盲導犬の育成について多くの獣医師たちは協力している.しかし目の不自由な人のために楽しかるべき一生を犠牲にした盲導犬が老齢になって仕事ができなくなったときに,老犬の運命はどうなっているのだろうか.そのような老犬をケアーする施設は日本にはただ1カ所と先日テレビでいっていた.育成に協力した獣医師たちや,お世話になった目の不自由な人たちが働けなくなったからと弊履のごとく見捨てるのは,万物の霊長たる人間のすることではない.せめて残された短い余生を感謝を込めて幸福に過させる施設を作ってやれないものだろうか.
  終戦で戦死しなかった兵は何百人も日本に帰って来たが,軍馬や軍犬は1頭も帰らなかった.南極探検隊の映画を見て太郎や次郎に感激した人たちも,老いた盲導犬の老後を労わる気持ちになれないものだろうか. 警察犬,麻薬犬,救護犬に対しても同じである.
軍犬と軍用犬
  軍犬と軍用犬は同じではない.終戦までは日本は国民皆兵で日本男子は全員,兵役の義務があった.いわば日本国にとって日本男子は軍用人間であった.その中で軍籍にある人は軍人である.
  日本ではシェパード,ドーベルマン,エアデルテリアの3種が軍用犬と定められていた.すなわち,この3種は餌を食べてフンをするだけの犬でも全部が軍用犬である.軍用に供する犬種を軍用犬という.軍犬は実際に軍務に服しており,軍の犬籍簿に記載されている犬である.
  戦時中でもシェパードの血統,体形,能力の優秀なものは1頭2万円もした.しかし軍で徴用する時の買上価格は最高200円と定められていた.因みに馬は10万円以上の競走馬でも最高600円であった.
  今の人は無茶苦茶だというかも知れないが,日本男子が召集される場合博士でも華族の若様でも無料であった.軍事郵便は無料だが当時,郵便ハガキは1銭5厘だったので,入営命令書や召集令状はハガキでくるため俗に人間は1銭5厘だといわれていた.出征は外地に行くことで,出征令状というものはない.
  シェパード富士号は日本最高位の犬だったので戦地には行かず,終戦まで陸軍獣医学校(東京)で飼育されていた.
  天皇陛下の愛馬「初雪」(白雪は定年引退)と一緒にアメリカに連れて行かれたと聞いた.食糧事情の悪い日本で暮らすよりよかったのかも知れない.
(参考)当時大学卒の公務員の初任給は80円くらい.二等兵は一期の検閲が終わるまで(3カ月)は8円,以後12円,見習士官50円,少尉70円.ただし,見習士官以下は営内居住で衣食住は無料.
天皇旗と白雪
  昭和天皇が白馬に跨り,その前を近衛騎兵曹長が天皇旗を掲げて先導している写真を見た人は多いだろう. この白馬は長い間陛下のご乗馬「白雪」で,馬学では「佐目月毛」サメツキゲと称して混じり毛なしの純白の馬だった.戦時中白雪は老齢のために芦毛の初雪にその使命を禅譲した.
  私は小学生の頃から,馬が好きで近所に甲子園乗馬クラブがあったから馬術を習い,国民精神作興体育大会(現 国体)にも出場させて貰った.その時の教官が三ケ尻義輝という人で,当時,馬術をしている人なら誰でも彼の名前を知っていた.彼は近衛騎兵の出身で生家は東北の馬牧場の厩務員で,近衛騎兵に入隊した.彼と同じ連隊に同時期に陸軍士官学校出身で男爵家の御曹司,第1回ロサンゼルスオリンピック馬術競技のゴールドメダリスト西中尉がいた.西中尉は第二次世界大戦当時は少将になって硫黄島にいた.どうして彼が硫黄島にいるのをアメリカ軍が知ったのか不明だが,アメリカ軍はゴールドメダリストの死を惜しんでマイクで「バロン ニシ 投降せよ」と幾度も叫んでいたそうだ.当時の日本軍は降伏することも,捕虜になることも許されなかった.負ければ死あるのみ,彼は部下と一緒に全員玉砕した.
  西中尉,三ケ尻曹長時代の近衛騎兵連隊の連隊長は遊佐大佐で,彼はフランス馬術の名手で昭和天皇も大佐に乗馬を習われた.彼は少将で退役し,満洲国の初代・馬政局長官になった.
  さて三ケ尻教官が戦前,近衛騎兵の曹長だったときに乗馬で天皇旗を掲げて陛下を先導するのは近衛騎兵の曹長で最も優秀な者と定められていたので彼が選ばれた.陛下の前を唯1人,同じ間隔を保ちながら天皇旗を奉じてご先導申しあげる,これが大変難しい仕事だと自慢を交えながら話していた.因みに,自動車を2台縦列で走らせる場合,後ろの車が前の車に合わせて走るのは簡単だが,前の車が速度を勝手に変える後ろの車にミラーを見ずに合わせるのはきわめて困難である.天皇旗を掲げた曹長は馬上で前を見つめたままで,振り返ることはできない,白雪の蹄の音だけを頼りに同じ距離を保たねばならない.それに馬が何かに驚いてイレコムなど何らかのトラブルがあれば当時は文字通り腹を切らねばならない.
  第1回ロスオリンピック時代の馬術競技は世界各国とも選手は騎兵将校に限られていた.馬術競技は昔のヨーロッパでは貴族のスポーツで,また,将校も上流社会の子弟しかなれなかった.このことが当時はオリンピックにも色濃く残っており,三ケ尻曹長は実力はあったが将校ではないので身分上の理由で参加できなかった.彼は准尉で退役した.二等兵から叩きあげた人は准尉までにしかなれなかった.准尉が最高の階級で少尉にはなれなかった.准尉は昔は特務曹長と称していた.これ以上出世はないので巷間では多少の軽蔑を含んで万年特務曹長,略して「マントク」と呼んでいた.
  三ケ尻准尉は第二次大戦で召集され,あまり例のないことだが少尉になって復員した.
(参考)元帥―大将―中将―少将―(少将以上将軍)―大佐―中佐―少佐―大尉―中尉―少尉―(少尉以上将校)―准尉(特務曹長)(准士官)―曹長―軍曹―伍長(伍長以上曹長まで下士官)―兵長―上等兵―一等兵―二等兵―(兵長以下兵)
○見習士官は少尉のすぐ下,将校勤務をしている者は准尉の上.